2000年度入賞作品

初級

「大阪の第一印象」 チョウ エンカ(中国)

 私は三月の末に大阪へ来ました。その日の午後私は兄といっしょにスーパーへ買い物に行きました。

 日本では車は道の左側を走ります。そして自転車は歩道を走ります。しかし中国では車も自転車も車道の右側を走ります。その上中国の自転車の台数は日本よりずっと多いのです。でも、日本では歩道を歩いている人が少ないです。日本人はみんなどこにいて、なにをしているのでしょうか。

 次の日、兄といっしょに学校に行く時駅を見ました。日本の駅は大きくて、にぎやかだと友達からきいていました。でも、駅を見た時には、これは駅ではないと思いました。大型店舗だと思いました。地下には喫茶店や書店やレストランやその外いろいろの店があありました。「梅田駅はここより大きいです。一階から地下二階までにやく三百の店が入っています。その駅に一日中いても全部見ることができないでしょう。」と兄が言いました。上海の地下鉄は一つしかありません。そして、地下一階しかありません。「大阪にはたくさんの地下鉄線があって、それぞれの線が違う色になっています。私たちがのった御堂筋線は赤い線です。」と兄が言いました。日本人はこの複雑な地下鉄線をよく知っています。外国人にもこの地下鉄ならわかりやすいです。これはとても不思議です。日本は本当に便利でにぎやかな国です。

 四月十日に私は学校に行って、入学式に参加しました。その日は雨が降っていました。「うちには雨がっぱがありますか。」と私は兄にききました。「日本人は雨の日は傘を持って自転車に乗りますよ。」「えっ、それはたいへんあぶないですよ。」「でも、ここは日本です。」そして、私は傘を持って自転車にのりました。それはとてもむずかしかったし、おかしかったです。

 私はこれから一年間日本で生活します。その間には多分いろいろのことがあるでしょう。私は日本のことを理解したいです。私の夢に向かって頑張ります。

「 日本」  ホウ ケンチュウ(台湾)

 日本の印象は強烈で面白いです。日本人はとても礼儀正しくて親切です。台湾では新聞、雑誌、テレビが日本の生活習慣をよく報道しています。それに三、四年間日本の会社につとめていたから、日本特有の文化や習慣をたくさん見てきました。例えば桜の花は日本の国花であるとか相撲は日本の国技であるとか剣道は日本の剣の道であるとか歌舞伎は日本の伝統的な演劇であるとかを知っていました。「郷に入っては郷に従え。」この一年間、私達の学校では世界の三十か国の人達が一緒に日本語と日本文化を習います。

 十五年前、廟宇で田中神様に会いました。「五、六百年前、私達は日本人で、京都に住んでいた、二人は、同じ日に生まれた、・・・・・」と田中神様からききました。そのときから私にたくさんの面 白くて神聖な物語を話してくれました。子供のときからいろいろな日本のことが大すきでした。三年前、はじめて日本へ機械設備を買いに来た時大阪でその年はじめて雪が降りました。大変うれしかったです。なぜなら台湾では初雪は縁起がいいしるしだからです。そして、伝統的な日本料理をおいしく食べました。町を歩いているとうれしくて快適でした。日本の工場長は「ホウさんは本当の日本人よりもっもっと日本人らしくさえ見えます。」と言いました。そのほか私は十年の鼻病があるのにくしゃみもしませんでした。先月日本へ来たとき家族はたいへん心配しました。いまは皆安心しています。日本が私を招いています。無言の日本の魅力。ぜったい他人にはわからないという気持ちです。

 やく百年前、日本人は台湾を統治したので文化思想、教育制度、企業管理は日本から深い影響を受けています。戦後の日本と台湾経済の発展は世界の奇跡です。なぜ日、台はこんなに高度経済成長を達成し得たか不思議です。二、三年前に世界的な景気の停滞、金融危機がありました。これは交互に来る好況と不況、目まぐるしい市況の変化だとみていました。日本と台湾は 安全に乗り越えました。日本人というのは、ふしぎな人種です。日本の会社のタテの関係は強味です。日本人は商売かたぎの民族だとも思います。それにまじめによく働くことは、成功に至る最善の方法です。去年九月二十一日夜恐ろしい大地震が台湾を襲いました。台湾政府が困り果 ていたので日本の「阪神大震災」の技術者が速く着いて手伝ってくれました。台湾と日本との関係は友好的になります。私たちは日本の経済問題や防災技術についてよく研究しなけらばなりません。

 日本が大好きだから日本語に興味があります。日本語を勉強しに日本に来ました。「努力すれば、苦労すれば、必ず後が楽になる」私は経済的な基盤もようやく確立されてきたし、先の見通 しも大体ついきたので日本へ来ました。克服した後の達成感が好きなのです。「天は自ら助けるものを助ける。」一生懸命努力すれば成功は得られるでしょう。

 

「人生の一駅」  チョウ ヘキフン(台湾)

 人生のこの列車が「日本駅」に入りました。くる前に少し日本について知っていました。けれども、日本に来てからわかったことのほうが多かったです。かんがえていたところと実際とはずいぶん違いました。

 日本は美しい国です。四月のはじめに日本へ来ました。ある日、大阪城へ行きました。お堀のりょうがわを歩いていました。そのとき、さくらの花がいっぱいにさいていました。花が風にそよぎます。どこからでも花が見えました。暖かい風が吹きました。雨上がり、緑は生気をとりもどし一段とうつしくなります。また、ふゆがすぎ、木の芽がふきはじめる春先には、あちこちの山が淡い緑になります。

 なつが近づくと広大な緑のじゅうたんになるのです。さくら色の季節の出会い、それは新しい自分との出会いでした。  日本人は社会では礼儀をじゅうしします。約束の時間を守り、人と人の出会いを大切にします。日本の社会のサービスは超一流です。十時開店と同時にデパートに入ると、店員だち並んでおじぎをして、お客さまを迎えます。日本のデパートのサービスに、日本のいい一面 を見ることができます。私達は日本人にこのましい印象を持ちます。

 日本人は公共の物を大切にします。自分の仕事にあいじょうを持っています。このあいせきの念は私のこころをゆたかにします。この国の人々はわがままとこじんのしゅぎを放棄します。社会やまわりの人に大きい愛あげることができます。他の人をいつも思いやっています。

 たとえば、ある日、私はほどうを歩いていました。そのとき、車は私を先に行かせました。よる、歩行者が来ると車のライトは小さくなりました。どのも家の前に花がおいてありました。

 きょう、私は大阪市立中央図書館へ行きました。日曜日だったので、大ぜいの人がドアあくのをまってました。私ははっけんしました。日本人は本を読む時間が長いです。図書館へお父さんとお母さんと子供が一緒に来ました。子供も高校生も大人もみんな電車の中で本を読んでいます。だから日本には小さい本がたくさんあります。みんな便利な本を持って出かけます。本を読んだら人々のレベルがたかくなります。だから人々のレベルがたかくなると人々の暮らしはよくなり、国も進歩すると思います。

 今、私は大阪の関西国際学友会で勉強しています。この学校の友達はいろいろな国から来ました。性格も年齢も人種も、みんな違います。人と人は縁があります。今、私のクラスで一番仲のいい友達は韓国のジョンさんです。時々「なぜですか」と自問自答します。私たちはずっと前から、友達のようです。私はジョンさんを大切に思っています。今、日本語がへたです。もし、日本語が上手になったら、こころの中で考えていることを話したいです。今、私たちはいっしょうけんめい勉強しています。

 せんせいたちは、何度もおしえます。理解するまで何度もくわしく説明します。ほんとにありがとうございます。今、私たち何もすることができません。せんせいに対していま私たちができることは勉強だけです。

 人生は不思議だ。私は子供のとき、日本へ来ました。けれどもその時は、日本ですむことが想像することができませんでした。今、この列車にのって日本へ来て、だんだん日本の文化や日本の歴史や日本のいろいろのこと、窓の外の景色が何かすこしずつ変わって、とてもうれしかったです。みんな、さまざまな人生があります。人の生命は限りがあります。けれども人生は限りがありません。自分の人生はぜんぶ自分でつくることができます。人生のいい景色はだれでも自由につくって楽しめます。

 

中級

「粉浜の風景」  シュウ ビン(中国)

 私が日本へ来て大阪市住吉区の粉浜という町に住んで、もう七か月になります。だから粉浜という町についていろいろのことをだんだん知る様になりました。粉浜は住吉区の西の方に位 置し、交通の便利な町です。それに粉浜の周りにいろいろの史跡や神社、仏閣や商業地域があるのでとても閑静な町です。粉浜で私が特に気に入っているのは何と言っても粉浜商店街、住吉公園、住吉大社です。それを紹介させていただきます。

 南海電車の粉浜駅を出て右へ行くとすぐ粉浜商店街が見えます。私がよく行く店は「ナカオ青果 」という八百屋です。この八百屋は家族全員で野菜や果物を扱っている店で、季節によって違う果 物と野菜を売っています。店の御主人と息子さんが二人で品物を並べたり、値段を付けたりしていますが奥さんはレジをしています。お客さんが店に入ると三人ともすぐ「いらっしゃい」と大声を張り上げます。もしお客さんがある野菜の食べ方がわからなければ店の主人は親切に教えてあげます。この店で毎日色々の安くて新鮮な野菜、果 物が買えるので夕方になると店はお客さんでいっぱいになり、皆安い野菜を買おうとしています。しかし、私はここに住んで初めのうちはデパートより八百屋の方が安いという事を知らなかったんです。毎日デパートで食料品を買っていました。ある日デパートで買物の途中で友達の八木さんに会いました。八木さんはデパートで肉ばかり買っていたので私は「なぜ八木さんは肉ばかり買うのですか。なぜ野菜を買いませんか。」と質問しました。八木さんはにっこりしながら「肉はデパートで買った方がいいよ。野菜なら商店街の八百屋で買った方が安いんですよ。」と答えました。そして八木さんと私は一緒に粉浜商店街に行って「ナカオ」という八百屋に入りました。やっぱり八木さんに聞いてよかったと思いながら安くていい野菜を買いました。それから私は商品街で食料品を買うようにしました。

 粉浜商品街から南の方へ歩いて五分ほど経つと住吉公園に着きます。住吉公園は広くはあまりないのにきれいな公園です。近所の人の話では住吉公園は昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所だそうです。公園の真中に小さな池があります。池の中では魚達が自由に泳いでいます。池の水がきれいなので池の底も見えます。池の西の方に子供のための遊ぶ場所があります。子供達が元気よくあちらこちら走ったり親と話をしています。それを見ると子供のころの事を思い出して懐かしくなりました。池の南の方に野球場があります。野球場の隣にサッカー場があって、少年達がサッカーしています。私はサッカーが大好きだからコートの周りに座って試合を見ることにしました。サッカーの試合を見ているうちに大学時代に戻った様な気分になります。そのころは本当に一番楽しい時でした。運動場の西の方に沢山の桜の木があります。「日本は桜の国」と言われているので毎年四月になると桜の花がさきます。今年四月、住吉公園の桜もさいていました。遠いところから見ると白い桜の花が空の白い雲の様になっていました。その時に近所の人々が家族全員で桜の木の下に座ってきれいな花を見ながらおいしい弁当を食べたり、いろんな話しをしたりしていました。時々笑う声も聞こえました。この様子を見ると家族と一緒に遊ぶよさをつくづく感じます。私は時間がある時や寂しい時に気分転換のために住吉公園へ行って椅子に座って色々のことを考えるのが大好きです。国の家の事、友達の事、自分の将来の事を考えて、時間の経つのもつい忘れてしまいました。

 住吉公園から東の方へ歩いて二分ぐらい経つと住吉大社に着きます。住吉大社の案内によるとここは住吉大社といって航海の神、祓の神、歌の神として古くから崇拝されている大社だそうです。私が国にいた時に日本の神社と日本風の建物について様様なことを聞いた事がありますが見た事が一回もなかったです。普段は住吉大社を参詣をする人が少ないですが神事がある日には沢山の人々が来て参詣します。特にお正月の一日には参詣する人が多いです。その日に住吉大社の中にはきれいな着物を着て参詣する人もいたし、日本民芸品やたこ焼を売っている人もいました。私は日本へ来て初めて日本のお正月はこんなに賑やかなのかと感じました。ところが私は日本の神社の参詣のし方がわからないので参詣する事ができなくて残念でした。

 粉浜は大阪の普通の町です。けれどもここの風景はいいし、住民もやさしいので私は大好きです。私はいつもこんなにいいところに住んでよかったと思っています。私の留学生活は後四年ぐらいあるので後の四年間には私は粉浜できっと楽しく過ごせるだろうと思います。

 

「祖母の微笑」   オウ チョウカ (中国)

 中国ではリンゴの産地、魯菜(山東省は魯国といいます)の発祥地の烟台市に、四方を山に囲まれた小さな村がありました。村には一人のお年寄りが住んでいます。老人はもう八十七歳になりますがふだんは元気に野菜を作ったり、簡単な料理を作って食べたりする毎日です。このおばさんは一九三〇年代に結婚のためにこの村へ来ました。当時二十一歳のうつくしい人で、夫もハンサムで中華料理が上手に作れたということです。二人は平凡な生活をしていました。しかし、当時中日戦争のために人々は不安な毎日をおくっていました。そして、生活が苦しくて、一日三度の食事に困っている人もたくさんいました。それで若い人や特殊な能力のある人の中には都会へ行ったり、少しでもたくさんのお金をもらうために外国に働きに行く人もたくさんいました。

 ある日、夫が帰って来ておばあさんに「私も日本へ行きたいと思うがどうだろう」とたずねました。おばあさんはびっくりして少しさびしい顔をしましたが少し沈黙してから「心配しないで行ってください。家の事は全部私に任せてください。立派に子供を育てて、あなたの両親をお世話します。けれど日本は遠いし、船で何日もかかるそうですよ。気をつけてくださいね。」と言いました。目には涙がいっぱいでしたが、けっして涙をこぼしませんでした。そういう乱れた社会ではあまり話をする必要はなかったのです。当時出国は今よりずっと簡単でした。ただ切符があれば日本へ行くことができました。二、三日後、夫は切符を買ってきて日本への道をふみだしました。

 それからおばあさんには大変な日々が始まりました。うちでは家事と子育てに追われながら飼っている鶏や豚の世話をし、外では農作業をしなければなりませんでした。特に山にある果 樹園の仕事は、彼女にとってはとても大変なことでした。おばあさんはてん足で肩に二つの水桶をせおって山へ行き、果 物の世話をするのはとても大変なことでした。初めはぜんぜんできなくて何度もくじけそうになりましたが性格の強いおばあさんはがっちりとして動揺しない信念を持った人だったのでしばらくすると男の人のように様々な作業が上手にできるようになりました。子供の教育に「人は貧乏でも信念を捨ててはいけません。良心を持って生きなさい。わるいことをしてはいけません。」とよく言いました。暖かい季節が去り冬が来ると家事をしながら外の雪を窓からながめては「あなたは今どこにいるのですか。いつ帰れますか。」と心の中で夫に問いかけました。

 時のたつのは無情なものです。やがて息子も二十才の若者になりました。おばあさんも年をとりました。髪も年齢より早く白くなりました。けれども一生けんめい働いていました。その頃日本にいる夫が消息を伝えてきました。おばあさんは自分でもうれしいのか、悲しいのか分からなかったのですが、思わず涙があふれてきました。夫の出国以来十六年間涙を流したことがありませんでした。そして夫が帰って来る日がきました。少し太って若く見えました。十六年ぶりの夫婦の再会でした。夫は日本へ行ってからはじめのうちは苦しい生活をしていたのは想像通 りでしたが中華料理がとても上手だったので立派な中華料理店を持つことができていい生活ができるようになりました。そして生活のため日本で結婚して子供も一人いました。夫が中国に残した息子を日本へつれて行きたいというのを聞いて悲しかったですが、見通 しがきくおばあさんは反対しませんでした。けれども息子は行きたくないといいました。母は十六年間も夫のいない日を過ごしてきましたから私までいない日は耐えることができないだろうと息子は考えました。それで息子は日本へ行きませんでした。中国で結婚して五人の子供が生まれました。私もその中の一人です。私はもの心がついた時からいつも祖母に「人間は人徳が大切です、自分の良心を決して無くしてはいけません。」と理解できるまで話して聞かされました。私が十六歳の年祖父が日本のおばあさんと事故でなくなりました。祖母は「人生は山あり谷ありですが、ただ自分の良心を決して無くしてはいけません。彼は日本で暮らして五十年になり、日本の方に情があるかもしれません。彼と彼のすべては日本に残した方がいい」と考えました。

 今私は留学生として祖父が五十年間くらした日本に来ています。出発する前に、祖母に会いに行きました。祖母は私にやさしい顔をして言いました。「人間は人徳が大切・・・。」と。私はその言葉をいつも忘れずに日本でがんばって勉強して祖母を安心させたいと思っています。祖父が愛した第二の故郷―日本で私も祖父のような人間になりたいと思います。

 

「初めての海」   ジョ ジ(中国)

 海と初めて出会ったのは去年の夏の終り、飛行機に乗って来日した時のことでした。空から青く広がる海を見て、どんな言葉でも表せないほど感動しました。

 私が海について知っていたのは本を通じて習ったほんの少しのことにすぎません。

 それで、子供の頃からほんとうの海の様子はいったいどんなふうだろうと非常に好奇心を持っていました。

 しかし、日本へきたばかりの時は日本語の勉強やアルバイト、また、日本での生活に慣れるまで買い物や定期券の購入など小さいことを含めていろいろな問題にぶつかりました。そういうことでたいへん忙しかったので、海を見に行ける機会がなかなかありませんでした。

 故郷からも親からも離れてひとりで暮している私は、はじめのうちは、まわりの人々と交流できなかったし、毎日通 学、アルバイト、食事、睡眠という同じことの繰り返しでうんざりしていて、「こんな大変な生活はもういやだ」と思いました。そう思いはじめると、孤独な世界で生活しているような気分になり、両親と友達が懐かしくてたまりませんでした。そして、将来の生活についてもだんだん自信がなくなって、つい、海を見たいという気持ちを忘れてしまいました。

 しかし、そうしているうちに、学校のバス旅行のおかげでやっと海に近寄って、ほんとうの海を見る機会がありました。  みなさんは海岸に立って海を眺めている時に、どんな気持ちなるでしょうか。その時の私は、海の広さと美しさに圧倒されただけでなく、人間の小ささをしみじみと感じました。同時に未来に対する希望がわき出して、心があらわれるような気がしました。

 なんといっても、海ほど人間と関係の深いものはないでしょう。海は人類をふくめた生命の源なのです。最初の生命の誕生から現代社会になるまで何億年という年月が経ちました。文明と進歩を実現するために、人間が最初の航海をはじめてから何千年もの間、神秘的な海を認識して、探求し続けてきました。現在は高度な科学技術によって、珍しい生物を発見したり、石油などという資源を利用したりできるようになるとともに、海の様子はしだいによくわかってきました。しかし、海について、人間が知らないことはまだまだたくさん残っています。これからも人間の生活に役立てるように、海の未知のことに積極的に挑戦していかなければならないでしょう。

 人生も同じだと思います。自分自身の人生に挑戦をしないと、有意義な生活を送れるはずがありません。人生には順調に行く場合もあれば、わるい場合もあります。失敗や困難に会った時、もちろんやめて逃げるのは簡単です。でも、失敗や困難をひとつひとつどうのりこえていくか、これこそ一番大切なことだと思います。

 私にとって、新しい生活がはじまったばかりですが、未来の生活では、もっと多くの問題にぶつかるに違いありません。それに思ったより難しいことはけっして少なくないです。しかし、精一杯頑張り続けさえすれば、今に夢が実現できると信じています。私はこれからも小さなことにくよくよしないで、積極的な態度で人生に挑戦していき、社会に役に立つ人間になろうと思います。

 海は私の視野を広げてくれたばかりではなく、人生の生き方も教えてくれました。初めての海、いつまでも忘れられません。

 

上級

「木の上に立って見ている人とは」   チン テンテン(中国)

 それはそんなに暖かくない初春の日の昼休みだった。私は天王寺郵便局へ切手を買いに行った。

 「また手紙を書かなくちゃ。まったく両親ときたら手紙を出す間隔も本当速いんだから。先週出したばかりの手紙なのに、昨日も返信が届いた。内容はほとんど変わらないのに、家庭内のこまごましたことだけ。手紙で愛情が交流できるなんて、全く感じられない。面 倒だわ・・・」

 私は歩きながら呟いた。とその時、

 「すみませんが、ちょっとお話したいんですが、よろしいですか。」

 私は一人のおばあさんに止められました。

 「留学生でしょうか。」

 おばあさんは優しく微笑んでいた。身なりがこぎれいで、程良いお化粧をした彼女は元気よさそうに見えた。

 「はい。そうです。この近くにある関西学友会の日本語学校に通っています。」私は知らない日本人に声をかけられてすごく緊張しながら答えた。

 「一人で外国にいると寂しいよね。ご両親も心配しているでしょう?週に何回電話をしますか?手紙も書きますか?」と、次々に質問をされた。

 「そう・・・ですね。」私は吃った。

 「うちの孫娘もあなたと同じぐらいの年です。いま国際線のスチューワーデスをしています。行ったり来たりして最近全然会っていません。寂しがっているかなあ。ずーっと旅行しているような生活です。」

 おばあさんの声が低くなっていた。顔も少し哀愁にそまってきた。が、おばあさんはすぐに話を続けた。

 「ごめんね、こんな話をしちゃた。でもあなたを見ると、あの子のことを思い出したのです。本当に心配しています・・・」

 私の心は何かに打たれたようにどきどきした。昨日届いた手紙の内容が頭に浮かんできた。親類の挨拶とか、家の内装とか、国の天気とかなどなど細かいことが書いてあったことをこの時、先の「何か」が分かったような気がした。

 「じゃ、頑張ってね、さよなら。」おばあさんの声は私の心を連れて戻した。

 「あ・・・はい、頑張ります、失礼します。」

 おばあさんの姿が見えなくなってから、私は歩き始めた。けれど、郵便局まで後五分ぐらいの道が急に長くなってきた。春風は一枚の木の葉を運んで私の頭の上に置いた。街の両側には大きな木が植えられていた。私はその木を見ていた。春とは言えまだ肌寒いので、葉が小さくてきれいではなかった。でも、太陽の暖かさと雨の優しさをいだいて、夏になると、きっと茂って行くだろう。ある言い方を思い出した。「親」という漢字は木の上で立って見ているというふうに書く。けれどももし親は木の上にふり注ぐ太陽だとしたら?雨は?青々としている空は?空を飛んでいる鳥は?

 考えながら知らず知らずのうちに郵便局に着いていた。十枚の小さく軽い切手を手に入れた時、始めてある重さを知った。それは愛情という重いものだ。

 実は、私は太陽と雨と空に守られながら育っている若木だ。時々、自分も感じていないほど小さな成長の脱皮を繰り返し、偶に少しずつ形の違った葉が生えている。そんな私をじっと見つめて、一喜一憂している太陽のような親がいる。そして、雨が、森林や大地を潤すように知恵をくれる先生たちがいる。やがて、若木は伸びていって、高くなる時、やっと広々としている空が見えるようになる。そこへ空を飛びながら色々な事を見てきた鳥が枝先へとまるように、私に感動というものを教えてくれる人たちがいる。

 日本に留学しに来て、毎日忙しく暮らしている。自分の力で生きていかなければならなと思いながら、いつの間にか、悲しみも喜びも季節の変り目も太陽の暖かさでさえ、過ぎ去った日々にのせ、忘れてしまっていた。しかし、一番広いのは空だと気づいて、その空からふり注ぐ陽の光や雨の重要さを改めて感じさせられた。

 私は幸せだ。高いところから私を見守ってくれている誰かがいることには間違いないと信じているから・・・。

「在りし日の先生」   キョク ホウ(中国)

 「みなさん、こんにちは。私の名前は王冬陽です。これからあなたがたは私の生徒で、私を王先生と呼んでくださいね。ところで、おねがいがあるんです。みなさんと私は初めてあったのですから、一人一人一番言いたいことを言ってくれませんか。では、番号順で行きましょう。曲君、曲鋒君!」

 「はい」と私は答えて起立しました。

 「あっ、本当に曲君はこんなに小さいとは思わなかった。でも、一言でもいいですよ。」と先生は付け加えて言われました。私はあてられるまで何も考えていなかったので、

 「僕、先生大好き!」とどきどきして言い出しました。教室のみんなはどっと笑って、王先生も目を細めてほほえんでくれました。そのほほえみは一生思い出に残るでしょう。

 その日から私達は王先生といっしょに五年半の学校生活が始まりました。その中で先生は私達に知識を教えてくれただけでなく、どのような人になるべきかということも教え導いてくれました。本当に母親のようでした。

 それは私が四年生の頃でした。いろんなことがあって、成績が急に下がって、自分の点数を見ながら、落ち込んでしまいました。そんなところに、先生が来られました。

 「曲君、どうしたの」

 「成績が下がってしまったんだ」

 「ああ、そんなことは心配しなくていいわよ。曲君は優秀な学生ですから。一度失敗しても、あとから努力すればきっと間に合うわよ」

 私は先生の話を聞いて、泣いてしまいました。

 「もう大人になったんでしょ、そんなことでもう泣いちゃって、弱気な曲君なんて先生は好きじゃない。これから自信をもって先生といっしょにがんばってねえ」

 先生は私の涙を拭いて、ほほえんでくれました。自分の努力と先生の助けのおかげで、私は成績が上がる一方、男の涙が重いということもわかり、心も強くなったと思います。

 六年生の冬休み、私はある知らせに驚きました。先生は重い病気にかかって、私達を教え続けることができなくなったということです。いったいどうして、あんな良い先生が・・・心が痛くても必ず現実に向かわなければなりません。それも先生が教えてくれたのです。

 最後の授業でした。先生はもう一度私達の目の前に立たれました。でも、これはわかれの日でした。

 「もうすぐわかれるよね、みなさんと。先生は悲しいわ。わかれの言葉なんか先生はいや。でも、この最後の日に、先生はみなさんに一つの小物語を話したいんです。それは師生の間で起こったことでした。Aは少しいたずらな男の子でした。成績も悪いし、ときどき遅刻するし、B先生はこの子があんまり好きではありませんでした。そして九月十日の教師節に生徒たちのおくってくれたたくさんのプレゼントの中で、あるプレゼントがとても目立っていました。それは古くて、そして半分しか入っていない一つのクリームでした。『いったいだれがこんなものをくれたの』と先生はそう思ってプレゼントの下にあるカードを読みました。『やっぱりあの子だ』・・・その次の日でした。『あなたね。どうしてこのプレゼントを先生にくれたの』とB先生はAに聞きました。ちょっと腹が立っているようでした。『このクリームは亡くなってしまった母親が残してくれたの。先生はやさしくて親しくて、先生のほほえみを見る度に、母親のことを思い出してしまう。母親はこのクリーム使ってから肌がなめらかになって、いい感じがするのよ。先生もきれいになろうと思ってこのクリームを使ってほしい』Aがういういしい声で答えました。B先生はその話を聞いてびっくりしました。『なんで、なんで、この子の心の中で私が母親のように思ってもらえるの。そちらこそがやさしくて、私のことを大事に思ってくれて、私はそんな資格があるの』とB先生は自分の心を問うて、涙がほおをつたって流れてきました。」

 ここで、先生の声が突然消えてしまって、私達は一斉に先生の方を見ました。先生のほおにも涙いっぱいでした。

 「そのつぎは」

 だれかが声を出しました。

 「それからのB先生はどんな生徒にもとても親切になって、母親のように生徒達を真心で愛するようになりました。そしてみなさん、このB先生そのものが私です」 先生はここまで話して、涙を伴ってもう一度ほほえんでくれました。

 「ほかにだれか先生に言いたいことがありませんか、みなさん」

 あいかわらずやさしくて、きれいなほほえみでした。

 「僕、先生大好き!」とつぶやいて答えました。

 

「日本におけるアフリカ人の使命」   ルケバナ トコ ウィリー(コンゴ)

 みんなが知っているように日本に住んでいるアフリカ人は少ない。大きな町の大阪さえ黒人に会うとびっくりする人もけっこういる。怖がる人さえいる。僕はアフリカからの黒人で、こういう人に会うと昔の植民地時代の歴史の本を思い出す。植民地を作るため白人はヨーロッパからアフリカまでやって来た。最初、はじめて白人を見たアフリカ人たちは怖がって、逃げていったそうだ。黒人の目から見るとお化けのように見えたそうだ。しかし、なれてくるとお互い人間だということが少しずつ分かってきた。同じように日本で僕が誰かに変だと思われてもすぐなれるだろうから全く気にしないことにしている。だが、僕が外国人だということにかありはないのだ。僕の経験では外国人、特に黒人はよく声をかけられ、日本人の友達もすぐ簡単にできるからだ。これからも僕の出身について日本人に沢山聞かれたら、喜んで答えたいと思っている。

 次にアフリカの評判について考えてみよう。現在のアフリカのイメージが悪いということは秘密にすることではないのだ。今日、世界の国々は二つにわかれている。北と南の国がその区別 である。普段、北の方の国は先進国と言われ、南の方の国は丁寧に発展途上国と呼ばれている。実際は二、三十年前まで最貧国とか未開発国などという術語も使われていた。発展というには技術的成長のみならず人間同士の考慮も必要だと考えられてきたからだ。しかし、それよりも現代の世界の中で物質的にしか考えられない人も少なくない。結果 的にはお金や物質などを人生の目的にする人もけっこういる。だから人間と人間との関係もどんどん可笑しくなっていく。例えば、お金を目的にし、結婚している人も沢山いる。純粋な愛が売り物になっていくと共に苦労をしている人や不幸せな人たちが増えていく。後になったけれども、アフリカは技術的にはあまり発展していないので、外の世界の人々にはなんとなく人気のない大陸である。皮肉なことには、アフリカ人の中でもアフリカが嫌いだという人もいる。恥ずかしいことだが、日本に住んでいるアフリカの黒人達の中には「僕はアメリカ出身だ。」と言う人もかなり多い。アメリカ人は日本人に偉いと思われているからだそうだ。嘘も方便という言葉があるけれども、ある友人は正直に僕にいったのだと思うが・・・「あなたがアフリカ人である以上時々日本人に嘘をつくことが必要だ。一緒に仕事を探すとしたら私はあなたより早く見つけられる。アメリカ人だから。」とおっしゃった。やっぱり人間という動物は、生来偉く見られたがるものだ。この人間の願望にはアメリカ人もアジア人もアフリカ人もない。だから自分を偉く思われるように嘘をつくのはアフリカ人だけの生きかたではない。日本では謙譲というものは習慣的に大切にされている。とはいうものの、日本人は外の人に低く見られたくはないと思う。そのために自分のことをはっきり言いたがらない日本人もけっこういる。僕の経験で出身校を聞かれた時有名な大学出身の日本人ならすぐ「京大とか東大です」と言う。評判のよくない大学出の人なら「秘密!」と答えるだろう。女性の年齢についても同じだ。日本の女性は比較的若く見えるのにもかかわらずみんなが20才と答える。見栄を張りたがるのが特徴だ。人間は・・・

 それにしても、自分の出身のことは別の問題と思う。我々はアフリカ人がみんなアメリカ人になってしまったら、日本人は誰にアフリカのことを聞くのだろうか。アフリカ人の日本における一つの使命は、アフリカのことを伝えることだ。テレビ番組などを見ただけでは、日本人はアフリカのことがよく分からないからだろう。アフリカから来たことは恥ずかしいことではない。アフリカ人だからといって、可哀想な人とか変な人というわけではない。今日アメリカ―先進国世界―にいる黒人は「ブラック」、つまり黒人と呼ばれるよりも「アフリカンアメリカン」という言い方をする人が多くなってきた。というのはアメリカにいる黒人はアフリカからきたということを強く意識している。この黒人の中はアフリカへ一生に一回でも行ってみたいと願っている人も多い。どうしてアフリカ人なのにアフリカがいやだと感じるのだろう。国や大陸の評判は一個人とは全く関係がない。だから国籍で人を判断するのではなく、自分という一人の人間として関わってほしい!と僕は思う。

 もう一つ、日本人によくされる質問は「いつ国に帰るのですか」僕は数えきれないほど尋ねられた。多分日本人の考えでは外国人が一生日本で生活するとは思えない。いつか自分の国へ帰ってしまう。でも、21世紀に向って出身地に関しては、人々の意識が変っていくはずだ。交通 や通信の発達等で、国境を越え、世界は小さな村だということを強く感じるはずだ。地球を楽園にしようではないか。

●作文コンクール参加者一覧は、ここに掲載しています。