1998年度入賞作品

初級

「今日は日本」  王 曄(中国) 

 「貴方はなぜ日本へ留学にきましたか。」とよく聞かれますが、一言では説明できません。  

 私が初めて日本人と出合ったのは二十年前です。私が小学校三年生で1978年、つまりちょうど中日邦交正常化の年です。いろいろな日本友好訪中団が中国を訪問にきました。私は書家協会の一員として、書道の交流を通して、日本人と書道の交流をすることができました。若かったのでだれからも好かれました。日本人は紙の折鶴で私に心からの祝福を贈りました。特に、横浜からきた稲葉俯穂というおじいさんはたいへん親切でした。その後、先生の顔を見ていません。先生は時々手紙と文房具などを私に贈りました。そのときの私にとって、日本は遠い国でした。先生から何か来るたびに、かならずクラスの友達に見せました。その時一番楽しかったのです。日曜日の 午後先生は中国語がわかる友達と一緒に私の手紙を読んで、「たいへんおもしろかったです。」と言いました。しらずしらずのうちに通信は中断しました。高校、大学の時に私は日本の高校生と大学生と友達になりました。毎回新しい日本の友達ができるたびにかならず稲葉先生のことを教えました。1986年のある日、大阪の友達から稲葉先生は1984年に亡くなったと聞きました。私にとってたいへんショックでした。とても残念です。  

 ですから、私にとって日本という国は科学技術が進歩している国以上に、恩師といろいろな日本人の友人の故国です。二十年後日本へきたのは本当に昔の約束のようです。  

 しかし、日本語学校の留学生の身分として、日本へ来るとき私は気楽じゃなかったです。  

 飛行機で上海から大阪まで二時間ぐらいかかりました。留学の生活は本当に寂しいです。日本へ来た最初のころは、日本語があまりわかりませんでした。それに、日本の物価は中国より高いです。私はお金を節約するために、いつも夜八時すぎにライフというスーパーへ値引をする食品を買いに行きます。日本人も値引をする食品を買いたいです。しかし、私の気持ちと日本人の気持はちがいます。帰る時重い荷物を持って暗い静かな道を歩きながら将来を心配しています。  

 春のある日の午後、ひとりで、大阪のきれいな歩道を歩いています。雨が降っています。花びらが散って、歩道にある喫茶店にはコーヒーの香りが漂っています。国の家の午後の紅茶を思い起こします。ホームシックにかかります。  

 でも、留学の生活は苦しいだけではありません。私は毎晩七時から十時まで学校の図書室で勉強します。ある土曜日、図書室には私しかいなかったのです。管理員のおじいさんからお茶とチョコレートをもらいました。その瞬間、熱い涙が目いっぱいにたまりました。そのとき、このおじいさんと稲葉先生の顔はすこし似ていました。本当にありがとうございます。  

 優しい日本人は沢山います。日本人の微笑はどこにでもあります。郵便局や銀行や病院にいるとき、私の日本語が上手じゃないけれども、日本人の微笑を見ると安心できます。自国語で日本の有名な小説「源氏物語」と「雪国」などを読みました。大好きです。中国でいろいろな日本の歌謡を聞きました。櫻花、白雪、青空、朝露、逢う、別れなどの言葉をよく読みました。日本人の心の世界には情感のこもった言葉が多いと思います。けれども、日本人はいつも微笑しています。日本人は涙を信じていないのでしょうか。有名な番組「おしん」は日本の民族精神の象徴でしょうか。私が日本へ来てわずか二か月で「一生懸命頑張って下さい」という言葉をよく聞きます。この言葉から日本人のやる気がわかるようになりました。  

 新幹線は世界で一番速いスピードで走っています。それは人々をせきたてているようです。週末のNHK番組では、会社員が一生懸命働く様子が映っていました。とてもすごいと感じました。日本人の精神は私も学ぶところがあると思います。どんな困難にであったとしても我慢をします。その時期が過ぎてしまえば大丈夫です。私の心は平静を取り戻します。  

 光陰は流れる水のごとし。そして未来を追求したいです。もし一生懸命に努力をしたら、稲葉先生とたくさん私の面倒を見てくれた日本の友人達に恥ずかしくないでしょう。新しい日に向かって自信ある態度でこの近くて遠い国に向かって、言いたい言葉がひとつあります。それは「今日は日本」。

 

「先入観」  閔 炳雲(韓国)

 自分でも知らないうちに、ある対象に対し先入観を持つことがよくある。無知から起こる先入観もあるし、ある目的を持って意識的に作られる先入観もあります。  

 こうした先入観は、個人だけでなく、異なる社会グループ、または民族や国というようにあらゆるものに向けられる。「良い先入観」というものはほとんどなく、先入観を持つことによって、その対象を初めからゆがんだ目で見てしまいます。その害は大きく、まさに「百害あって一利なし」と言えるものです。  

 わたしの場合も、例外ではありませんでした。日本に来る前は、日本に対して漠然としたものではありますが、かなり先入観を持っていました。  

 「日本人は韓国人に対して良い感情を持っていない」「日本人は個人主義」「日本人はエコノミック・アニマル」等々…  

 韓国ではこういうことが書かれた本がたくさん出版されていて、それに対して私は、意識的に悪く一方的に書かれたもので、読む価値がないものだと思っていましたが、知らない間に私の頭にもたくさんの先入観がインプットされていたんです。  

 もちろん中には韓国人に対して良い感情をもっていない日本人もいるし、仕事ばかりしている日本人もいるでしょう。でもそれはどこも同じ。韓国にもいやな人間はたくさんいるんです。  

 人の話やマスコミにより、自分でも知らずに心に根づいた先入観によって、日本に来た初めのうちは、道を歩いている時も電車に乗っている時も緊張と不安で身を固くし、家に帰るとぐったりと疲れていました。  

 しかし日本に来て約半年がたちますが、韓国人だということで、不親切にされたり、敵意をもたれたことなどは、一度もありません。  

 学校で日本語を教えてくれる先生や、アルバイト先の同僚、そして電車や道ですれ違う人達を通じて感じるのは、隣人という親近感であり、日本に来て緊張していた私自信、驚くほどの親切心でした。

 私が住む近所では、人々が互いに微笑みながら挨拶をし、近所の誰かが入院したら少しずつお見舞金を出します。  

 私は、人々の間に通い合う人情を見て、「ああ、韓国と同じだ」と思いました。  

 こうして自分の目で見ることなく、人からの話で作られた先入観が一つ、二つ壊れていくうちに、人が住むところ、基本的な生活、人情はみんな同じだと思いました。  

 まだ日本と韓国の間でも複雑な感情が残っているのも事実です。  

 しかし国家と国家の間の問題は、結局はそこに住む人と人との間の問題です。今では毎年たくさんの韓国人が日本に留学や観光に来て、たくさんの日本人が韓国を訪れます。  

 日本という国、韓国という国を先入観―ステレオタイプで見るのではなく、自分の目で見ようとする時、一人の人間としてお互いの国の人達と出会い、話し、理解しあえるのだと思います。こうした簡単なことを私たち一人一人が努力するなら、日本と韓国は本当の意味で一番近い隣人になれると思います。

 

「BMWと共に始めた日本の生活」  南 ○静(韓国)

 チリン、チリン、私のたった一万六千円のBMWのクラクションの音です。  

 私が日本に来た日に一番必要として買ったのです。この日私は初めて乗り方を習いました。誰でも乗ることが出来ると思った私はちょっぴりがっかりしましたが、ある日よその家の壁にぶつかった時には完全に自信を無くしました。日本語も勿論世の中に簡単に習えることは無いと教わりました。  

 私のBMWはガソリンが要らないです。かわりに私の足の力で動きます。経済的でしょう。  

 ある程度練習して自信を持って走った日BMWは私に休憩を与えてくれました。あまりの恥ずかしさで痛みも感じなかったのと三月のアスファルトが冷たいのを思いしらされました。  

 おかげで一週間ほどベッドで眠る日々でした。  

 その後、もう慣れたかなと思ったのにまた事故を起こしました。今度は車にです。  

 この日私は右足が左足より重たいのと時々空が真っ黒になるのを感じました。  

 事故があった日を境にして車を通り過ぎる時はいつも左足に力を入れるようになりました。そして警察で事故届けを出す時、日本の交通法を理解し、日本語も早く話せるようにならなければと思いました。  

 私が今住んでいるところは南海高野線の北野田駅から歩いて三十分ぐらい、BMWなら十分ぐらいで行くことができます。様々な事件を経験しながらもBMWは私にとってなくては ならない存在になりました。  

 ああ、そうだ、もうひとつの事件がありましたね。入学式があった日、駅前の銀行に止めてあったBMWが見当たらなくて困ったんです。運悪くその日市役所の人に持って行かれました。  

 千五百円を払って取って来る私はこれからの日本生活に不安を感じました。  毎朝、BMWと共に走る十分間で一日のコンデイションがわかります。誰かと一緒に走るのと前を走る車を追い越すのは、なぜか人生でも誰かを追い越す気分になって気持が良くなります。  

 今ではすごく上手になったと姉に言われます。でも、たまに電信柱などにぶつかる時があります。そういう時はかっこいい人を見つけたか、他のことを考えながら走ってるからです。  

 BMWと共に始めた私の日本での生活、つらいことも一杯ありましたが、今になってみると、日本生活にもっと早く適応するようにしてくれたと思います。  

 この頃はちょっとでも時間があったらBMWと一緒に走ります。それで今は近所の道をほとんど分かるようになりました。  

 たった一万六千円の車ですが千六百万円の車よりずっと気にいってます。あちこちぶつかって傷だらけですが、いつ、どこに行くのも私と共にいてくれるんです。  

 以前授業中先生が「あなたが好きなスポーツは何ですか」と聞かれた時は思わず私は「自転車」と言いました。私の国では自転車はスポーツです。自転車専用道路がないからたいていは指定された場所で乗れます。人間が生活するうえでレジャーとかスポーツを楽しむのはその人生をもっと愉快にしてくれるものだと思います。私は学生ですからほかのスポーツを楽しむ経済的なゆとりがありません。日本では日本語を習ってまた日本文化を習う途中で自転車文化も一緒に習うつもりです。  

 私のBMWは日本で生活する最後の日まで共にすごす最高の友達です。  

 BMWよ!最後までよろしく!

 

中級

「日本の第一印象」  魏 志強(中国)  

 日本に来てもう一カ月ぐらい経ちました。一カ月前の今ごろ、自分の理想と親の期待を抱いて日本に着きました。日本で生活していると日本人と付き合うのはもちろんのことです。日本人と交流する時、最初で最大の困難は言葉です。日本人と話す時、言葉が出来なくて、自分の考えや気持が相手になかなか伝えられなくて、本当に困りました。それにがっかりしたこともありました。  

 この一カ月、先生に教えてもらったり日本人と友達になったりして、日本人の習慣や礼儀や生活方式が少しずつ分かってきました。それに生活にもだんだん慣れてきました。日本や日本人に対して、中国で全然考えられなかった新しい印象を与えてくれました。私は日本や日本人の考え方についていろいろ考えました。  

 日本人の考え方と中国人のと一番違うのは日本人は婉曲的な表現をすることだと思います。例えば、日本人はいつも「何々をしないほうがいいでしょう。」とか、「こうすればいいんじゃないでしょうか。」とかいう言葉で自分の考えを表わします。ことわる時には、「はい、一緒に行きたいけど、今日は都合が悪いのですみません。」というように言います。そうすれば、相手が聞いても気持がわるくならないでしょう。中国人の場合は直接的に「私はこうと思います。」とか「今日はだめです。」とかいう言葉で表わします。これはたぶん日本人の優しさの具体的な表現でしょう。  

 言葉が分かっても日本人の習慣を知らなければならないと思います。四月の二十九日に京都のある日本人の友達を訪ねに行きました。友達の家でお茶を飲んだり、いろいろおしゃべりしたりしました。そのうちに、友達はたばこを出して自分だけが吸いながら私と話し始めました。私もたばこを吸いますが、私は持っていかなかったです。中国人は自分がたばこを吸う時、いつも友達に勧めます。これは中国では基本的な礼儀です。ですから、友達は礼儀がわるい人だと思ったので、だんだん話したくなくなってきました。食事を食べてから、会館に帰りました。夜、管理人室へ行って管理人に昼の事と自分の考えを話しました。管理人はびっくりしたようです。管理人の話によると実はたばこは健康に悪いので、日本人がたばこを勧めないのは日本人の習慣だそうです。それを聞いて、私は友達に電話をかけて昼の事を説明してお詫びを言いました。  

 また、大阪の道を歩いて、両側にはたくさんごみ箱がならんでいます。吸い殻とか飲み物の瓶とかたばこの空箱とかは、ほとんど見られません。それは日本人は清潔さが好きな民族だからだと思います。

 日本に来て、私が持った印象で一番深かったのは、発達した交通と新鮮な空気です。大阪の地下鉄は路線が多くて速いです。ふるさとの中国青島は大阪と比べることができません。それに大阪の道は広いです。信号がたくさんあります。しかし交差点には交通整理をする人がいません。日本に来た時におかしいと思っていました。よく見ると車と人々がみんな交通規則を守っていて本当にすごいと思いました。大阪は工業が発達しているので空気はきっと汚れていると思ったけれども私の見た感じではきれいです。戦後、日本は廃虚になりました。日本人の勤勉さで経済は世界一流になりました。それは日本人の素晴しいところだと思います。  

 日本に来て、まだ一ヵ月ですが、いろいろな事を経験して日本語だけの勉強では十分ではないと思いました。日本の文化や日本人の習慣や考え方がわからなけれは無駄だと思います。これから、現実と自分の理想のために日本でいろいろなことを勉強したいと思います。

 

「今、私は…」  范 盈盈(中国)

 私は去年日本へ来たばかりのころはあまり日本が好きではありませんでした。なぜならば、日本の言葉、風俗、習慣、ものの見方などというものを知らなかったからでした。  

 最初、日本に来た時、私は仮名もわかりませんでした。それで、ほんの表面の物事だけで日本という国のイメージを心の中だけで作りました。まじめに仕事をしている人、電車の中でお年寄りに席を譲っている若者、世界で最も進んだ技術で作られた電気製品、美しい懐石料理、きれいな着物など、良いことがある一方、中学生殺人事件、学校でのいじめ、どこでも売っている裸の写真、繁華街でよく見かけるホームレスなどよくないこともあります。日本は先進国で、よいこともあればよくないこともある国だと思いました。私は日本に来てもうすぐ一年が経とうとしています。日本のいろんな風俗、習慣について少しずつ知るようになりました。日本人は神様を信じる人が多いことに気がつきました。祭り、色々な行事などみんな神様と関係があります。でも、なぜ日本のような先進国で神様を信じる人がこんなに多いのか不思議でした。そこで、私は今年のお正月に伊勢神宮へ行って参拝してきました。そこは景色がよくて非常に静かな所でした。人々は皆神宮に向かって祈っていました。私もなぜかまるでそこに神様が本当にいるような気分になり、祈ってみました。すると、私はわかりました。たぶん人々は神様じゃなくて自分に目標をたてているのではないかと思いました。たとえば、合格祈願など…  

 日本の言葉は平仮名と片仮名と漢字で表します。そのうち、漢字は中国人の私にとって見慣れています。日本語は漢語と和語と外来語に分かれています。漢語といえば、中国から借用した言葉と考えられます。そのため、最初日本の言葉というと、言葉で書いた文章はほとんど中国から習って真似たという感じ強かったです。私は国で外国の文学作品を読むことが多くなく、特に日本の文学作品が非常に少なかったです。最近私は日本語を勉強するために夏目漱石の「私の個人主義」という文章を毎日少しずつ読みました。すると、私の考えが間違っていたことに気がつきました。中国近代の文学史には魯迅という偉い文学者がいました。その人の思想がその時代、さらには今でも大きく影響しています。魯迅は若い時日本に行って留学したことがあるそうです。中国では、魯迅は子供の頃私塾でよく勉強し、中国の文化を深く研究していたといわれています。でも、魯迅は日本に行った時、なんの影響を受けたのか、私はあまり関心がありませんでした。けれども、今私は少しわかるようになりました。魯迅や一生を中国の革命に捧げた孫文など若い頃日本に行った時、中国より安定なところにいて中国の未来を考えたことだけでなく、日本のいろいろな新しい思想の影響を受けたと思っています。こういう思想は何か、私は知りたいので今私は日本の言葉や日本の近代作品に非常に興味を持つようになりました。  

 ところで、世界中でたくさんの国の紙幣には王族または政治家の肖像がのっています。最初、私は日本の紙幣にのっているのは天皇だと思いました。しかし、ある日、友達からそれは天皇じゃないと言われました。千円札には色々新しい考え方を持つ有名な文学者の夏目漱石で、一万円札には封建的な制度に反対し、西洋の新しい思想を日本に広めた、あの「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」で有名な福沢諭吉でした。日本では天皇より新しい思想を社会に広めた人の方が尊敬されます。これが日本が今日まで来れた一つの要素だと思いました。  

 日本での留学の生活は思ったよりおもしろいです。日本語の勉強は思ったより楽しいです。今、私は毎日一生懸命日本語を勉強しています。日本の言葉、風俗、習慣、ものの見方などもすこしわかるようになりました。

 

「年賀状の思い出」  張 強(中国)   

 今年友達の周さんからおかしな年賀状をもらいました。一番大きい特製の年賀状には祝いの言葉が何も書いてありませんでした。  

 「ええー、書くのを忘れたのかなあ。」と思い、私に何か冗談を言うつもりなのかなと思いましたが、何もわかりませんでした。  

 晩御飯を食べてから、私は座って真面目にこの模様もないし、文字もない年賀状を見ました。やっとその濃くて厚い緑に気がつきました。突然以心伝心のようにその人の気持ちが伝わってきました。周さんはその緑で友情とお祝いの気持ちを表していたのです。よく考えてみればどんなペンでもそんな濃い緑の上に字を書くことはできないでしょう。  

 周さんは私の一番の友達です。学生時代に私達はいつも一緒に本を読んだり、宿題をしたり、テレビを見たり、ウインドウショッピングをしたり色々なことをしていました。彼女はいつも美しい雑誌や新聞を見ると私にそれで本のカバーを作ってくれました。週末2人で一緒に買物に行って彼女は自分の好きなデザインを選んで、私は自分の好きな色を選びました。彼女は私の喜びをいつも色の中に落ちるようによくわかってくれました。彼女は洋服の縫い方を習った後、時々私を誘って家へ行き、私の体に布地をかけて「これはあなたの今年の色よ」とか、「これはあなたの今の色よ」と言いました。私は彼女から沢山色の贈り物をもらいました。  

 私は色が大好きです。どんな色でも好きです。学生時代に友達は全部自分の好きな色を持っていました。ある友達は肌が白くてきれいな女の子で、彼女は一年中黒い服装をしていました。彼女はよく「生まれてから精神が興奮しやすい性格なので、黒い中にいると心が落ち着くんです。」と言いました。もう一人明るくて情熱的な女の子はピンクが大好きで服装も鞄もリボンも傘も全部ピンクで統一していました。私は彼女たちは個性があって自分の好きな色がはっきりしていると思いました。でも私は色についてはっきりわからず自分自信の好みもかなり偏っていたと思います。いつも、赤いお日様を見るとその赤に興味を持って視覚の効果がしばらく続きます。一望無辺の海を眺めるとその濃い青は私の心も無辺の中に引き込みます。緑のカーペットが敷いてあるような山を見ると私の心は雨が降った後のように涼しくて気持ちよくなります。  

 それにしても私は好きな色が多すぎます。こんな性格が私の人生にきっと沢山の色を与えてくれるのだと思います。  

 学生時代の周さんはいつも石鹸の泡で自分の夢を表しました。強い太陽の光の中に石鹸の泡は沢山の色を表します。しかし人生で一番美しいのも夢です。そして一番壊れやすいのも夢だと思います。これは石鹸の泡のようです。泡の生命は短くて弱く、はかない物です。酷い風や雨がなくても呼吸して壊れてしまいます。自分の石鹸の泡を守ろうと思う子供も一人もいないし、永遠に自分の夢の中にいようと思う大人も一人もいません。  

 私達はこういうことが全部わかっていますがやはり石鹸の泡の中で遊んだり、追いかけっこをしたいのです。  

 昔の人は「人生、夢のごとし」と言いました。この言い方は消極的すぎるかもしれません。実は人生は元々無数の夢を含んでいるのです。夢があれば希望もあります。人間は自分の夢を実現するために色々なことを一生懸命やっています。そして自分の夢が実現すれば社会もどんどん前に進んでいくと思います。

 

「日本人の胃」  ○ 志良(中国)

 中学生の頃のことだ。地理の授業の時、先生は指示棒で黒板の前にかかった世界の地図を指しながら、日本国の地理の概要を説明していた。南北に細長い日本の形を見ていた私は、何だか人間の胃の形に似ているという気がした。もっとも、その胃は腹がへったせいか、ちょっと細く見えた。  

 その時から十数年が過ぎた今、その日本の土地に立って、少年の頃の感覚が一層強くなった。日本へ来たばかりのある日、日本の友人にご馳走になった。目の正月といわれる日本料理は一つ一つテーブルの上に置かれて、きれいなことはきれいだけれど、子供のころから「生のものを食べるな」と警告されてきた私は、口に運ぶのを恐れていた。「日本の文化を理解したかったら、まず日本の料理から。『郷に入れば、郷に従え』と友人が私に勧めた。日本へ来たからにはと私は決心がついた。少し食べてみたが、あっさりしていて思ったほど食べられないことはなかった。ところが、少し食べただけで、生のもののせいか、その夜は私は心配した通りおなかを壊した。幸いなことに、薬を飲むとすぐ治った。そこで「日本人の胃はすごいなあ」と私はあらためて思った。同じような胃なのに、どうして日本人の方が強いのか。考えてみれば、もともと私の胃も生のものが食べられるのだろう。だが、子供のころから煮たものをずっと食べてきて、胃の働きがだんだん退化して今のようになったのだろう。この間、『生食は体にいいし、栄養に富む』という文章を読んだ。食物をそのまま、あまり加工しないので栄養分が失われないと書いてあった。でも、生食してお腹を壊さないのには、生食できる胃がなければならない。日本人はこの生食の胃を持っている。  

 一方、日本では、日本料理を初め、中華料理とか、韓国料理とか、フランス料理とか、イタリア料理など世界各地の料理が集められている。日本人も生のものから煮たものまで辛いものから甘いものまで全部とって、好きなだけ食べている。生食の胃のほかに、日本人は雑食の胃も持っている。  

 ここまできて、日本の文化に一つ思い当たった。日本の文学はその源にまでさかのぼると、ほとんど他国からとって食べてきたのだろう。漢字もそうだし、外来語もそうだ。他の国から必要ならそのまま一応取って来て、この雑食の胃で消化吸収して日本自身の文字に転化する。この便利さと早さには目を見張るものがある。  

 さまざまな異なる文化も料理のように日本で共存していることがよくある。面白い現象に、多くに日本人は、結婚式はキリスト教式で挙げるが、葬式は仏教方式で行うのが不思議ではないように考えられている。また相撲とゴルフに同時に熱中する人も周りに少なくないようだ。一般のマンションの様式に和室と洋室は国際結婚する夫婦のように一緒に結び合わされている。このような例を挙げれば切りがない。  

 日本はどうして今では世界先進国の先端に立てているのか。これも日本人の特有の胃と関係があるのではないだろうか。他国の優秀な文化や先進的な技術など必要であれば、とりあえず取り入れ、分解や吸収を通して日本民族のものに融け込ませる。雑食の胃は幅広く優れたものを取り入れることができる。同時に生食の胃はそのまま取って来たものを体を害しないで利用することができる。また、日本人の知恵と努力によって、元のものを越え、それ以上によりよいものを創造してきたのだ。例えば、テレビは日本人が発明したものではないが、現在の日本は世界一のテレビ生産国となっている。『MADE IN JAPAN』がついた電気製品は世界のどこでも売れているのだ。日本は敗戦後早く立ち上がり、再び強くなって、更に今でも優位を保っているのは日本人の特有の胃のおかげもあるといえるのではないだろうか。  

 日本は国土が狭く天然資源も乏しい。地図上もおなかがすいた状態の細長い胃の形をしている。たぶんすいているせいか、日本人は御飯から文化まで食べるスピードが早い。また、そのすいた感覚(危機感?)が強いため、日本人はこんなに一生懸命頑張っているのだろうと私には思える。  

 私は今、日本料理が好きになってきた。もういくら食べても大丈夫だ。「私の胃が強くなったからには、日本の文化も食べてみよう。」

 

上級

「中国と日本―人権の視点から―」  銭 暁敏(中国)

 早いもので来日してもう一年になりました。この一年間は、いろいろな新しいものに出会った新鮮で楽しい一年間でした。むろん、いろいろなカルチャーショックも受けましたが、それによって視野が広くなり、考え方も柔軟になりました。私にとって、この一年間はまた収穫の一年でもありました。  

 中でも一番考えさせられたのは、中国とは全く違う人権に対する考え方や取り扱い方です。私の国、中国は人権を尊重していない国とされていますが、まさにその通りだと思います。私が実際に経験したことでは四年前に(まだ私が大学受験を控えて受験勉強真っ最中のことですが)いきなり住んでいる地区を道路のために、すぐ出るようにと市政府の命令が下されました。「頼むから後一カ月待ってほしい。」と親がいくら頼んでも、命令は命令。結局慌ただしい引っ越しとなり、さんざんな大学入試でした。今思い出しても、市政府の荒っぽさに腹が立ちます。  

 これに対して日本は、個々の人権を尊重して度重なる交渉をするそうです。私が今住んでいる茨木市では、府道の拡張工事をしています。道の舗装工事がほとんど完了していますが、まだ使用はできません。なぜかというと道の真ん中に、一軒家がポツンと立っているからです。その家の主人はどうしても売りたくないそうです。日本の成田空港は何十年たった今でも、何人かの農家の反対で計画された建設ができないそうです。  

 中国の一人っ子政策に関してもまた、両国の間に人権に対する考え方の違いがみられます。それは人権侵害ですよと日本ではよく耳にします。確かにこの中国の政策は、個々の家庭を犠牲にして成り立っています。またこれによってこれから高齢化問題などいくつかの難問を生じるでしょう。しかし、私が中国で受けたのは「この地球は、一つしかない。地球の資源は限られている。」といった教育です。考えてみれば世界の人口が戦後ずいぶん増えてきました。それに伴った開発で、生体系が破壊されたりして動物の生存できる場所や生存する権利が奪われているのではないでしょうか。  

 元々、人間も動物の一種にすぎないのではないでしょうか。人間の権利ばかりを尊重すればいいのでしょうか?と最近この考え方が頭に焼き付いてなかなかふき取れません。   

 要するに、来日してからいろいろなことをまた物事の両面を考えるようになりました。国にいるときは、教わったことを当り前にしか受け取れませんでした。しかし、国を出て違う文化、違う価値観に出会ってぶつかり合いながら、やっと自分で考えることができたような気がします。  

 この世には絶対正しい、あるいは絶対間違い、というものは存在しません。これは人権問題を通じて得た来日してからの私の最大の収穫です。  

 中日両国の間に文化、習慣、風俗の違いによって、または偏った宣伝によっていろいろな誤解が生じるかもしれません。相手の立場に立ってお互いに理解し合うようにこの収穫を生かして、中日友好の架け橋になるように努めたいと思っております。

 

「日本の仏教」  楊 ○(中国)

 日本に来てから半年あまりが経ちました。今日まで私が日本で実際生活をしてみて、最も関心を持ったことについて書こうと思います。それは中国から伝えられた日本の仏教の変化であり、仏教が日本社会に与える影響はどのくらい大きいかである。  

 私は去年十月に来日してから今年三月までずっと京都に住んでいました。第二次世界大戦の災害のない京都と奈良は日本の最も有名な古都だと言われています。そこはお寺も多いし、日本の文化に関係のある宝物もたくさんあるし、旅行には良い所である。そのためによく楽しみました。そして、いつもお寺へ遊びに行くとき、仏教の跡が見えました。そして、自転車で学校へ行くとき、何かつぶやいて道を通るお坊さんもよく見ました。それで、日本には仏教があると思いました。  

 今年四月に私は今の学校で学習することになって、京都から大阪へ引っ越してきたのです。そして、毎日四天王寺を通って学校へ行くようになったのは、学校の授業が始まってからです。四天王寺にも仏教の跡が見えました。ある日、いつものとおり四天王寺を通ると、東門のちょっと前に立っている碑を注意して見ました。見ると石碑の上には大日本仏法最初四天王寺」と書いてあります。四天王寺は今から約一四○○年前の五九八年、日本に仏教を広めた聖徳太子によって建てられました。四天王寺は仏界を守る四体の神を意味します。この寺は日本最古の官寺として発展し、庶民を救済する寺として多くの人々の信仰を集めてきました。昨日、奈良の法隆寺へお参りに行きました。仏教について良い勉強になりました。法隆寺は古都奈良の斑鳩と呼ばれる地域に建っています。この法隆寺は七世紀の仏教寺院の姿を現在に伝える世界最古の木造建造物であり、このような例は仏教発祥の地のインドにも、それが栄えた中国にもないのです。  

 実際には、六世紀頃、インドの仏教が中国から日本に伝えられました。そして仏教は爆発的に日本で盛んになっていったそうです。中国の隋唐の時期、両国の国民がお互いの国を訪問することが多かったが特に隋唐がおこると日本の留学生や留学僧も加えた遣隋使・遣唐使を盛んに送って新しい文化の輸入につとめました。例えば、中国の鑑真というお坊さんが仏教の交流のため何回も日本へ来ました。日本の空海という高僧も中国へ行ったことがあるのです。今の奈良の東大寺には鑑真の銅像が保存されています。  

 ところで、今の日本の仏教はちょっと変わってきたと思います。日本の「仏教」という文字は中国の漢字で「佛教」と書きました。ですから、日本の仏教にとって、中国の仏教は深縁な影響のあることがわかります。けれども今の日本の仏教は中国の仏教と同じではないのです。京都の日本語学校の先生の話によると、日本のお坊さんは結婚することも出来るそうです。本当にびっくりしました。実際にそんなお坊さん達は仏教の経書らしい経書を読み、信じているのでしょうか。経書には「不飲酒、不食肉、不淫欲、不殺生」などと書いてあります。仏教というのは、信徒の「忍耐」と「無欲」を強調し、人間のいっさいの痛みのおこりは人間の欲望ということを信じます。痛みを取り除くために自分の欲望を取り除かなければなりません。ですから、長期的に修養鍛練することが必要です。無欲になるまで修養鍛練すると、人間が「涅槃」の域に着けます。つまり、霊魂が天に昇り、仏になるのです。  

 しかし、今の日本のお坊さんは一つの職業であり、官寺は政府から援助がもらえるかもしれませんが、お坊さんはお寺の神様に参拝して国民の献金、葬式などの行事をしてもらう報酬金を利用して暮らしているのでしょうか。しかも、中国のお坊さんは全部お寺に住み、布で作ったくつを履きますが、日本のお坊さんはお寺だけに住むことはなく、下駄を履きます。なぜ日本の仏教が変わってきたのですか。今の学校の先生が日本にも結婚などしないお坊さんがいると言いました。日本語が上手になれば是非行って見ようと思います。  

 今、お寺へ行く日本人が非常に多く、幸福を祈る場合もあれば、不幸を除去するために祈る場合もあります。お寺と仏教の文化は日本の珍貴な遺産になっています。日本の仏教は仏教らしい仏教のインドの仏教と違うと思います。そして、今の日本の仏教は昔の日本の仏教と違うと思います。この変化はどのように起こってきたのでしょうか。日本人が今、毎年お寺へ行くことは習慣になっていますが、一体、国民、特にお坊さんがどの位のレベルで仏教をとらえ、信じているのでしょうか。これから出来るだけ速く日本語が上手になって、もっと深く日本の仏教を研究できるように頑張ります。

 

審査委員特別賞(初級)

「平和の重要性」  アンディ・ウイリアム (インドネシア)

 私はインドネシア出身の留学生です。希望と不安な気持ちで、はじめてこの国の地を踏みましたのは今年の4月2日でした。日本に来られたのは、文部省のおかげだと思います。私は高校生のころから、日本に来ることを夢見て、一度この国で勉強したかったんです。しかし、日本は私の国と比べれば、物価が非常に高い国です。家族にも日本での生活費を負担することができません。このため、日本に来られる夢が実現できませんでした。いま、文部省の奨学金で、この国に留学することができるようになって、かんしゃのきもちがいっぱいです。  

 私は日本でホテルの経営管理を勉強しようと思っています。なぜなら、母国のかんこうセクタ−に力を尽くしたいと思うからです。  

 私の国はとても自然がきれいな国です。バリ島以外のすばらしいかんこう地がいっぱいありますが、それらのかんこう地はまだひろく知られていません。  

 私はホテルでの仕事を通じて、インドネシアを訪れる世界のかんこう客に、知られていないかんこう地を紹介したいです。多くの人々にもっともっとインドネシアのことを知ってほしいです。  

 私は日本語が話せる効率の高いホテル従業員をめざしています。現在、インドネシアでは、このような人材がまだたりません。だから、私はもっと勉強にはげまなければならないと思います。  

 来日してからもうすぐ2ケ月になります。私はいまでも家族のことをよく思い出しています。私は毎週二回、家族に電話をします。家族は慣れない国でのさびしいこころをなぐさめてくれます。最近の電話では、インドネシアで大きな事件が起こったことを知りました。それは反政府の学生運動でした。全国でぼうどうが起こり、多くの店や家がこわされました。それに、けがをしたひとも多かったです。人々はみんな心配でしかたがなく、他のもっと安全な所に行かざるをえませんでした。私の家族もそのえいきょうを受け、マレ−シアのサラワク州にあるホテルに泊まりました。私はこれらのことを知り、家族のことが心配でならず、勉強に集中できませんでした。さびしいこころに心配な気持ちが加わり、その時はとてもつらかったです。この大きな出来事から、私は平和の大切さをはじめてかんじました。

 平和は人々の安全や社会の安定を守ります。平和がなければ、人々は普通の生活ができず、国も発展できません。かんこうセクタ−やホテルはもちろん、いろいろな産業もえいきょうを受けます。外国の投資家はその国からどんどん出て行きます。人々はふだんのように仕事ができません。その結果、産業の生産は止まってしまい、国の発展も進められません。幸いに、今回は流血事件にいたらずにすみ、国は安定な状態に向かっています。私の家族もみんな無事で、ほっとしました。  

 最後に、このエッセイを通じて、私は平和の大切さを訴えたいと思います。平和は安全な生活や安定した社会をきずくためには非常に重要です。平和のない社会や国はとてもかんがえられません。人々はけんかし合う、殺し合う社会で安心してくらせるのでしょうか。そして、そんな国はうまく発展できるのでしょうか。 答えはもちろんノ−です。だから、私は世界中の人々に、どんな問題でも平和な方法で解決してほしいです。

 

審査委員特別賞(中級)

「日本に来て驚いたこと」  リチャ・ジャヤ−ル (インド)

 十八歳の時から日本語を勉強して来た私には文部省の奨学生になれたニュ−スは無上の嬉しいことでした。今まで小説や教科書だけで読んだ日本を実際に行って見られることは本当に夢のようでした。魅惑的な日本を見ることにおいても日本語の練習にも絶好な機会だと思いました。奨学生の連絡をもらってから来日するまでの一カ月の間はビザや出国の手続きでとても早く過ぎました。その時寝られないほど興奮していた私は毎日日本のことを想像しながら過ごしました。「やっと日本へ行くチャンスが来てよかったね。」と考える一方で実は少し緊張していました。なぜなら家族と離れて一人で住むのはきっと淋しいだろうと思って心配していました。結局インドと日本の差は両方の国の距離だけではなく文化や社会も全然違うと言う事が分かりました。  

 インドで「日本事情」の授業でいろいろ教えてもらいました。日本の経済や文化について本や映画を見たこともありました。でも実は日本人の日常生活について少しも知らないのではないかと思います。翻訳のアルバイトの関係で会った人はいつも「日本は多分インド人にとって住みにくいかもしれません。」と日本での生活を説明してくれましたが私はどうしても一度日本へ行ってみたい気持ちがどんどん強くなりました。  

 日本に初めて来た日のことをよく覚えています。関空に到着してびっくりしたのは人々のかっこうでした。いまの日本人はちょんまげをしていないと言うことは前からわかっていましたが着物を着ている人があまりいないのに本当に驚きました。男性はみんなス−ツで女性はほとんどのひとが洋服を着ていました。  

 インドではまだまだ伝統的な服を普段着として着る習慣があり、インドの女性はほとんどみんな毎日サリとパンジャを着ます。だから日本は私の国と全然違うので大変驚かされました。それは日本の第一印象です。タクシ−で留学生会館ヘ行ってそれから部屋まで送ってもらいました。部屋代の高さと部屋の狭さに目がまるくなるほどびっくりしました。インドなら同じお金で大きなアパ−トが借りられるのではないかと考えたことも覚えています。またインドでは学生には電話やテレビがついている部屋はぜいたくなものです。不思議なことには日本社会の豊富さと日本の若者の生活の様子を見てからこそ初めてインドの貧しい人々のひどい実情を本当に理解することができたのです。日本のぶっかの高さに今も時々びっくりしてしまいます。先日東京に住んでいる日本人の友達にどうしてゴ−ルデンウイ−クに実家へかえらないんですかと聞いたら「広島までの新幹線の費用があんまり高いからです。」と答えたので驚きました。日本の旅行費は留学生達だけにとってではなく一流の会社員にも高いのは意外でした。それに日本人に国内旅行は海外旅行より高いと聞いてびっくりしました。  

 日本に来てホストファミリ−のおかげで日本人の生活を見るチャンスもありました。経済大国の日本でまだ畳の生活があり人々が靴をぬいで部屋へあがるのに驚きました。それは多分日本人はきれい好きだからでしょうか。  表面だけで見ると日本はとても近代的で社会に西洋風の影響がつよいと見えます。でもよく見ると今の現代的な時代にあっても日本人は昔の習慣と文化を守っています。成人式、ひな祭りの時皆お寺へ行ったり楽しんだりします。  

 日本はとても美しくて安全な国です。文部省の奨学金のおかげで日本に来ていろいろな面白いけいけんがあってかっこくの人と友達になりました。日本にいる時いろいろな所へ旅行したり日本人の友達を作ったりしたいです。それで日本の友達にインドのことを紹介してあげたいです。けれども日本人がインドに来たら驚くことは少なくないと思います。

 

審査委員特別賞(上級)

「人の心」  フォン・ティ・ビック・ンォク(ベトナム)

 私が高校を卒業した後、父は仕事で日本へ来ました。その事をきっかけにして、私が日本へ留学する決心をして、関西国際学友会日本語学校へ入学することが決まりました。その後、父の仕事が大阪から東京へ変わりました。その為に私は大阪に一人で住むことになりました。私はもう一八歳ですから、私なりに「まわりの友達と同じように一人で留学生活を送ることができるかなあ。」と思いました。けれども両親は大変心配して、私の為にホームステイの家族を探しました。  

 両親の友達を通じて私達は山尾さんの家族と会いました。初めて両親に連れられて山尾さんの家に行った時、私はちょっと緊張しました。けれども山尾さんのお父さんとお母さんは、最初に言葉をかけたり、色々な説明をしてくれて、私の心の窓を開いてくれました。話しているうちに、山尾さんは私だけでなく、多くの国の留学生の世話をしてあげていることが解りました。今も日本に住んでいる人もいれば、もう帰国した人もいます。将来、再び日本へ来る機会の無い人もいますが、何時も連絡をしているそうです。その後、私は故郷や家族や友達などから遠く離れて、初めて一人でクリスマスやお正月を過ごす経験をしました。  

 お正月になって、私は母国ベトナムを思い出し、何とも言えない淋しい気持ちになりました。「こんな時に私にとって一番大切な家族や友達がいたら、どんなに幸せでしょう。」と何時も考えていました。これは私だけではなく留学生の皆さんも思う事でしょう。  

 山尾さんの家では、そんな私達の為にお正月にパーティを開きました。このパーティは山尾家では、毎年の伝統になっています。ネパール人からインド人まで沢山の留学生が集まりました。留学生を中心にしたパーティは、私達にとって、とても嬉しいものです。  

 私達は皆、山尾さんのおかげで、楽しいお正月を過ごすことが出来ました。寒い日の事でしたが私達は大変暖かく幸せに感じました。パーティの次の日、お母さんは私達を京都へ連れて行きました。映画村では、昔の日本らしい町や生活が良く解るようになりました。  

 私はある写真屋を見て、足を止めました。ここでは王様や王女などになって写真を撮ることができました。着物を着せて貰っている人達を見て、私も着てみたいと思いました。  

 私の考えていることが解ったのでしょう、お母さんは私に写真を撮らせてくれました。私は着物を着て、日本人になった様な気がして、本当に嬉しく思いました。  

 その後、私は山尾さんの家に引っ越しました。私は言葉や文化や習慣などが違う人達と一緒に住むのは、どうなる事やらと、とても心配していましたが、「案ずるより、産むが易し。」です。山尾さんの家族はその日以来、私を自分の子供や妹にしてくれています。日本の東京とか京都とかいった有名な所にも行けるようになりました。又、美味しい日本料理も沢山作ってくれ、私はいつまでもこの味を忘れないでしょう。  

 山尾さんの家族は私の友達も暖かく迎えてくれて、言葉では表せないほど感謝をしています。その上、留学生寮では、どうしても母国の言葉を使いがちでしたが、今は違います。今ほど良く日本語を使ったことはありません。ベトナムに住んでいた頃は新聞やテレビを通じて得た情報によって、私は「大抵の日本人は厳しい。」と感じていました。けれども私の考え方は変わりました。来日して初めて日本人の親切さが分かる様になりました。親切なホームステイの家族に恵まれて、私はとても幸せです。  

 私は感謝をする度にお父さんとお母さんに「将来、ンォクちゃんも他の人を助けてあげて下さい。」と言われます。「お父さん、お母さん、二人の心や言葉をいつまでも胸に刻んで忘れない様にしていこうと思っています。」いつの間にか私はここは自分の二番目の家族と思ってます。日がたてばたつ程、心が通 います。それと共に私は、日本の国や人が良く分かるようになってきて、愛するようになった気がしています。人間と人間が心を通 い合わせると言う事は、「愛が生まれる。」と言う事ではないでしょうか?こんなに沢山書いても、私は自分の本当の心や感謝を、充分に書き表わせません。しかし、私の気持ちを解って下さい。私はまだ学生にすぎません。だから、今は日本の国と日本人に、「ありがとうございます。」と申し上げられるだけです。