1997年入賞作品

初級

「日本の文化を経験したい」  韓 仁盛(台湾)ハン・ザン・スン

 台北で暮らしていて感じることは、いろいろなものが日本に影響されているということであります。有線テレビでは日本のミュージック番組やドラマや映画などが多いので、日本の人気スターや 歌手が台湾でも有名になっています。たとえば、木村拓哉、江口洋介、安室奈美恵、石田光などいろいろのスターはファンが多いです。本屋では日本の雑誌や漫画もたくさん並んでいます。学校が 休みの日に漫画屋で漫画を読んでいる学生たちも多いです。  

 それに、テレビのコマーシャルや雑誌の広告に宣伝している商品でもっとも頻度が高いのは日本のメーカーの商品です。町へ行くと道を走っている車はドイツ製やフランス製のもたくさんありますが、一番多いのはトヨタとホンダと日産の自動車です。商店の中にはナショナルのテレビ、日立のエアコン、三菱の洗濯機、ソニーのビデオなどいろいろの商品が売っています。ほとんど日本のメーカーの製品ばかりなんです。     

 私は日本へ来る前に台湾松下電器のエアコン技術部に一年半ぐらいつとめていました。新入社員のオリエンテーションに創始者の松下幸之助さんが奮闘したことを聞きました。松下氏はとっても立派な人だと思いました。毎日会社で「朝会」があります。会社の経営理念を読んで自分の感じと意見を発表しました。「会社は社会の公共のものです。」、「水道水のような安い商品をたくさん生産しましょう。」、「お客さんが使いやすくするためによく考えましょう。」、「人間の生活水準を上げることは会社の重い責任です。」と いう言葉をいろいろ聞きました。松下氏の人生哲学について知りましたが、深く感銘を受けました。たしかに、お金をもらうことばかりでなく、お客さんと社員のしあわせのためによく考える会社は国民と社会にとって必要なものです。  

 そこで、私は日本の文化と企業の経営管理を習うために日本へ来ました。大阪に来てから二か月たちましたが、大阪の町をまだよく知りません。しかし、どうしても大阪城を見たいと思ったので地図を持って電車にのって大阪城公園へ行きました。私は歴史の小説や映画が大好きです。数年前 にNHKの時代劇「徳川家康」、「武田信玄」を見ました。その時代劇は日本の戦国時代のいろいろの人物がよく描かれているので、かなりおもしろいと思いました。大阪城は戦国時代の覇者、豊臣秀吉によって築城されました。夕日に映っている大阪城はキラキラと光ってとてもきれいです。 大阪城の中に戦国時代の槍や鉄砲やきれいなよろいも並んでいるし、豊臣秀吉と大阪城の歴史も紹介しています。「大阪夏の陣合戦図屏風」をビデオでくわしく紹介するところもあります。いろいろなものが見られておもしろかったです。  

 歴史人物は民族の思想と文化に対して大きな影響を与えています。それで、大和民族を理解するためには日本の歴史を知らなければならないと思っています。今、日本企業の国際競争力は強いですが、日本商品は世界の市場を支配しています。日本が戦争が終わったあと五十年で「経済大国」 になれたのは、ゆうしゅうな経営者の経営理念と日本民族の精神力によるところが大きいと思いま す。  

 もう三年で二十一世紀になります。国際間の交通も便利になったし、国際貿易も盛んになったし、国と国との相互理解、文化交流はとても重要なことなってきています。機会があれば外国へ行っていろいろの民族の文化や生活を経験したいと考えています。国際交流が幅を広く、根を深く張れ ば世界の平和は達成されるのではないかと思います。

 

「私の家」  楊 夷(中国)ヤン・イ

 わたしは今年の3月留学生として日本へ来ました。ほかの留学生とちがうところは私には日本に家があります。ほんとうにふつうの家です。この家が私を異国にいるようにはかんじさせません。この家は私にあったかいものをかんじさせてくれます。この家の人たちは私をはげまし力づけて くれます。かれらから私は日本人の純粋さと善良さを学びました。私に人間の良さをかんじさせてくれたのはかれらです。すなわち日本のおじいちゃん、おばあちゃん、ちちとははです。  

 私は私の保証人と同居し、日本のある家庭の子供になり私の家は五人家族になりました。ちちとははは毎日出勤し、私は学校へ行き、おじいちゃんとおばあちゃんは家にいます。私の家は一般的な日本人が住む住宅です。二階建ての木でできた家です。家のなかはすべて畳です。けれども、ちちとははは私が慣れていないと思い、特別にベッドを買ってれました。  

 私の学校は家からとても遠いです。毎日往復五時間ぐらいかかります。はじめて学校へ行った日 、ははは私が道を知らないので特別に会社をやすみ、私をつれて行ってくれました。私は播但線にのり、それからJR新快速にのりかえて地下鉄にのります。その日は乗客がおおくて彼女は二時間 以上ぴったりと私についていてくれました。入学式がおわり母はわたしがおなかがすいていると思い、私たちは交流センターでひるごはんを食べました。  

 かえり道、母は私がまだ学校へ行く道を知らないと思い、東梅田でのりかえるところを地上から地下へと何度も歩きながらおしえてくれました。この時、私はこのそばにいるおんなの人を母親と思いとても大切におもいました。  

 学校は九時十分からはじまります。私は毎日五時半におきます。その時おこしてくれるのは父です。かれはすでに私のためにあさごはんをつくってくれています。そして車で私を播但線までおくってくれます。  

 毎朝、車をおりる時ちちは「気をつけて、行ってらっしゃい」と言います。私は自分にも言います。「きょう一日がんばります!」  

 毎晩かえってからつかれているかれらから小学生と同じように日本語をおしえてもらっています 。  このように私は毎日毎日たのしく生活をしています。毎日新しい知識とかわらないはげましをうけています。  

 毎日つかれて家へかえっても「ただいま」といえばあたたい笑顔があります。  

 ちちとははは日本人です。私は中国人です。私は以前ふたつの国にわかれて生活していました。ことばもふたつです。しかし、私たちのこころは同じです。  

 ちちとははは私を生んだ人ではありません。けれどもかれらは私にとっても大きな前途と大きなそら、きれいな虹をかけてくれました。そして私はここでたのしく暮らし、成長することができるのです。  

 今は、そこくからとてもはなれていますがかえりたいとは思いません。  

 ここが私の家です。彼らが私のちちとははです。

 

「日本初印象」  殷 娟(中国)イン・チェン

 私は殷娟と申します。今年4月に中国の江蘇省からやってきたばかりです。  

 私は1977年に中国の改革開放政策とほとんど同時に生まれ、中国の経済発展とともに成長してきました。そのうちに中国と日本との間の経済、文化、教育などの交流がますます深くなってくるに伴い、中国の人々、特に若者たちは日本への関心を持つようになってきました。その中の一人として、私は日本に対して特に興味を持っていました。  

 両親の世代の日本に関する知識は第二次世界大戦のことが多いですが、私の場合には近代日本、特に経済大国になってきた日本についてより多く知っていました。多分それは教育の違いが原因だろうと思います。テレビや新聞などの媒体は一番大きい情報源で、それから日本の政治、経済、更に文化に至るまで知識がありました。山口百恵、高倉健などの俳優も知っていて、中国でも彼らは人気があります。また旅行学校に通っていたので現実の生活の中でも日本の先生や友達と知り合う機会を持つことができました。それらを合わせた日本に対する印象は経済大国、先進国で、それから中国は学ぶべきことが多いということです。  日本人は一般に親切で丁寧です。それは世界的にも有名です。ある時には日本人の礼儀は多すぎると考えたこともあります。  

 仕事に対して、日本人は特に真面目で、一生懸命にやっているので、それは良いことと思いながらも日本人は仕事が好きだという印象もありました。「日本人は働きすぎる」ということも聞いたことがあります。  また重要な一つは、日本は男性社会で男女平等に慣れてきた中国人にとって印象深いです。でも日本女性は優しくてとても柔らかいと思いました。今まで見た日本の映画やドラマの場面でもほとんどそうでした。日本に来る前の日本に関する印象はだいたい以上でした。  

 そして今年4月に日本に来ることが実現できました。今、私の前の日本は聞いたり言われたりした日本だけではなく、本当に自分の目で見て自分自身で感じられる日本なのです。もちろんまだ時間が短くて、前から持っていた印象はそんなに変わらずに持っていますが、新しい印象も増えてきました。  

 日本に来たころ、日本は近代的できれいであると強く感じました。町はきれいで緑がよく見えます。特に生活は便利でサービスは細かいところまでやっています。スーパーは多く、自動販売機、公用電話などは身の回りにたくさんあります。  

 日本の交通はとても便利で、交通設備も完備されています。飛行機や新幹線などはよく使われています。それと共に日本人の交通意識も強くて、皆が交通ルールを守っています。交通が混んでいる場面をあまり見たことがありません。ベルもあまり鳴らさないようです。しかし良くない面もあります。例えば夜になると「暴走族」が出てきて、大きい音を出して走ってゆきます。かなりうるさくて危険だと思います。なんとかして規制すべきだと思います。  

 日本にくる前に日本語を少し勉強しました。日本語には漢字が多いのも分かりました。日本に来た頃、街や駅などの看板には漢字がよくあるので何だか親しみを感じました。今の学校の先生たちはとても丁寧で真面目に教えて下さっています。発音から作文までの細かいところまで直していただいています。先生たちのおかげで私の日本語もだんだん上手になってきました。   

 日本の食物は中国のと似ているので、早く慣れました。日本は料理の種類が多くていろいろな国の料理が楽しめます。刺身、寿司、天ぷらなどの代表的な日本料理も食べました。美味しかったです。日本人の家にも行ったことがあります。家と家の間はあまり距離はありません。多分日本は地震が多いので建物は全部耐震性が良いのです。  

 大阪に来たばかりの時はちょうど桜が満開の季節でした。中国にいた時にも桜は日本の象徴であると知っていました。そして大阪に来た後お花見に行きました。場所は有名な万博公園でした。万博公園にいくとびっくりしました。あんなに多くの桜が一緒に咲いているのを見るのははじめてでした。ピンクの花がいっぱい咲いていてまるで花の海でした。多くの人々がいました。皆は桜の下で花を見ながらお酒を飲んだり話し合ったりしてとても楽しそうでした。その雰囲気に影響されてさくらのきれいさを強く感じました。その後の一週間雨が降って花はほとんど落ちてしまいました。その時に何だか寂しいと感じました。桜の満開の時期は短くてもすばらしく咲きました。それを考えて人生もそうだと思いました。我々の人生は宇宙と比べてかなり短いけれども、一生懸命に努力して自分がやりたいことができれば、桜のように満開したといえるでしょう。多分それが人生なのでしょう。  

 日本に来てからまだ2カ月しかたっていません。これからまだまだ長く勉強すると共にますます多くの経験を持ってゆくでしょう。そしていろいろな良い思い出になってゆくでしょう。それを楽しみにやってゆきたいと思っています。

 

中級

「忘れ難い微笑」  温 麗琴(中国)ウン・リー・チン

 日本に来てからもう半年あまり経ちました。日本の生活にもなれてきて、元気で勉強も頑張っています。しかし、日本に着いたばかりのころ、会ったひとりの女通関士さんの親切な微笑が、今でも忘れられません。              

 去年の秋、私は将来の夢のために、祖国を離れて、異国の土地、日本へ留学しに来ました。来る前、国の家族も日本にいる姉も、私に「パスポ−トと飛行機の券など大切なものによく注意して、特に通関の手続きを忘れないようにしなさい。安全にも気をつけて。....」何度もくりかえしアドバイスしてくれました。私は家族の話をよく頭に入れました。しかし、故郷以外のどこにも行ったことがなかったし、飛行機に乗ったこともなかった私にとって、自動販売機はどんな物かもわからなかったんです。家族は私をとても心配して、私も緊張していました。     

 国での通関の時には、兄の見送りのおかげで、通関が円滑に進んで大阪までの飛行機に乗りました。でも、飛行機に乗った時も日本の通関のことを頭に一杯考えていました。三時間もかかって、やっと空港に着きました。私は飛行機をおりると、眼前の見知らぬ土地が目に入って喜ぶ気持ちも異国の孤独の感じも自然に出ました。アナウンサ−の言った言葉はぜんぜんわからなくて困っていました。私は、一緒に乗っていた乗客に従って入国審査に行きました。   

 そこで、人々がそれぞれ手続きをしていました。前は家族から通関のことを教えてもらっても、今は見知らぬ日本に着いて、よく知らない言葉でほんとうにどうしたらいいかわからないんです。私は不安で立ち止まって周りを見ました。たくさんの人々は少なくなってしまいました。「家族がいればよかった。」とつぶやきながら涙が出そうでした。その時、一人のお姉さんのような通関士さんが、微笑んで私の方に来てくれました。彼女の明るくて大きいふた重まぶたの目がとてもきれいで、微笑んだ顔が春の桜の花のようでした。彼女はとても親切だったので、私は落ち着きました。彼女は私に日本語で話しました。けれども、私はその時には日本語は「あ、い、う、え、お」と「ありがとう」と「さよなら」しかできませんでした。彼女の話はどうしてもわかりませんでした。困っていた私は 顔がすぐ赤くなりました。親切な彼女は再び微笑んで“Can I help you?” と聞きました。私は、“Yes, Please.”と答えました。 そして、彼女は私にパスポ−トを出して見せるように言いました。私はそうしました。彼女は入国審査表を取り出して私に書かせました。     

 私の英語はあまり上手ではなくて、ある言葉がわかりませんでした。彼女は、ゆっくり、ゆっくり忍耐強く簡単なわかりやすい英語を紙に書いてくれたり、説明してくれたりしました。その時に残っていた人は私だけでした。それで、あわてて書いて、注意していなかったので、手に黒いインクがついていました。“Take it easy.”にっこりしてまだ書いていないところは私のかわりに彼女が書いてくれました。書き終わった後で、彼女は私の汚れた手を洗いに、トイレへつれて行ってくれました。  

 その後、通関の手続ができました。でも、私が一人で行けるかどうか、彼女は 心配していました。だれかがむかえに来るかどうか、私に聞きました。私が、姉が迎えに来てくれると言っても、彼女は気がすみませんでした。私をつれて行って、出口でいっしょに姉を待ちました。20分経って、姉がやっと来ました。心のやさしい彼女は、喜んで「よかった、よかった。」と言いました。別れる時も彼女はまた微笑んでくれました。私も、感激してありがとうと言っておじぎをしました。       

 時が流れて、七ヶ月が経ちました。異国にいる私は、寂しい時、いつもあの通関士さんの親切な微笑を思い出すと、心があたたかくなります。いつまでも、あの微笑が忘れられないでしょう。

 

「世界で一番偉大なお父さん」  程 文鳳(中国)ツァン・ウン・フォン

 8年前に父は病気で亡くなってしまいました。思えばあれから何度も父のことを書きたいと思ったのですが、その度に涙が溢れて来てなかなか書けませんでした。今学校が機会を与えてくれたことに感謝して書いてみようと思います。

 父はまだ五十八歳の時にしたい事をたくさん残したまま私達のところを去ってし まいました。愛する家庭に別れて、愛する世界に別れました。生命の最後の期間父は何度も繰りかえし、「私は死ねない、私の子供はまだ小さくてまだ学生で、まだ結婚していません。父親として責任がまだ終わっていません。」と言いました。それらの一日一日が忘れられない記憶として胸に刻まれています。父はほんの俗人でしたが私にとって世界で一番偉大なお父さんです。

 父の一生は辛いことがたくさんありました。七歳の時に母親が亡くなってしまいました。大きくなって戦争にあって学生時代は戦火の中で過ごしました。新中国になった後で学校の先生になりました。六十、七十年代は中国の文化大革命の時代で政治運動がありました。その時知識は無用だと考えられました。父も農業をしなければなりませんでした。それは先生にとって一番辛い境遇でした。しかし父は逆境にめげずにずっと知識は大切なものと信じていました。兄は何度も学校へ行きたがらなかったのです。その時父は「学問は今無用ですが後になると必要になるかもしれません。その時勉強しても間に会わなくて困ります。」と勧めました。父のおかげで今兄と同じ年齢の人たちは百姓として農業をしていますが、兄は先生として学校で英語を教えています。     

 父は責任感が強い人でした。先生として全く自分を忘れた奉仕の精神とりっぱな教え方で他の先生と学生に尊敬されました。三十年間に父に教えられた学生が何人居たか自分でもよく知りませんでした。    

 父は子供が六人あるので生活はたいへんでした。家庭を支えてきたために仕事の外にいろいろなことをしなければなりませんでした。毎朝早く起きていろいろな野菜を育てたり、庭の掃除をしたり、家畜を飼ったりしました。父は毎日疲れましたが楽観的でした。寝る前にいつも私たちにいろいろの物語を話してくれました。父が子供をかかえ育てる苦労を村中の人々はだれでも知っていました。  

 私たちは子供のころには新しい服やおもちゃさえなかったし、ピアノなどももち ろんありませんでした。けれども私はこんな家庭にうまれたのが幸運だったと思っています。今私たちは健康な体や強い意志があるからです。どんな困難に会っても大丈夫だと思います。     

 父は子供にふりまわされていましたが、やっと努力がむくわれました。兄と妹が先生になった時、姉が抜群の成績で中国の有名な清華大学に入った時、私と弟が競争の激しい時に無事大学に入学した時、そんな時父はだれより喜びました。親戚や村の人々や同僚たちに羨ましがられて父は幸せと感じました。しかし父にとって生活はもっと困難になりました。体が悪くなってしまいました。     

 私は子供のころから父にあまりよくものを考えない子供だと言われていました。 この特徴は今も少しも変わりません。しかし父のことはたびたび思い出されます。 父は蚕が糸を吐いて最後に死ぬ、ろうそくが燃えてとうとうなくなるように子供と学生に一生の愛情を注ぎ込みました。もし父にそんなたくさんの子供がなければ、もしそんな苦しい生活に会わなければ、今もさぞ元気よく暮らしているでしょう。私はいつもそう思います。     

 父のことは一つ一つ思い出せばとてもこの作文では書き切れそうにありません。  

 お父さん、安心してください。私たちは今みんな結婚して親になっています。親になって初めて親の有難さがもっとわかります。みんな平凡な仕事をしていますが自信を持って頑張って行けます。私たちは父の子供だからです。

 

「私の夢 」  胡 ○雅(中国)フ・ル・ヤ

 店の外は青い空、白い雲、いつものようないい天気です。店の中では私はいつものように上司にしかられています。走る程のスピ−ドを出してやっても「早よせんか!」と言われ皿に自分の顔が写る程洗っても「ちゃんと洗わんか!」と言われます。公平という物が私の生活の中にはありません。せっかく日本へ来たのに、ほんのすこしの国際的友好もありません。それに、私はまだ18才なのに、そんなにひどく言わなくてもいいでしょう。おまけに標準語じゃないし。なぜ私は、最初から日本料理などこんなに大変な仕事を選んだんだろう? なぜ日本人は人をしかってばかりいるんだろう? なぜ日本人は人にしかられながら命を惜しまずに働くんだろう? 一杯の考えごとが私を困らせますが、自分でも答えられないし、誰も答えてくれません。でも、一つだけ、たしかなことは今の上司が私をしかるのはまちがいだということです。「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。」この諺はちょっとえらそうですけど、事実だと思います。私は夢を持っている鴻鵠ですから。     

 「何を考えとんねん。18才は若いと思ってんのか。燕雀っていったい誰やね ん? こら...」なぜだかわかりませんけど、上司は私が考えていることを知っ ていました。そして、上司が拳を挙げて、私を打って来た...。

 目がゆっくり覚めて来て、現実の世界が一瞬に全部戻って来ました。やっぱり夢だったのか。こわくて、汗も出て来ました。現実の中の上司はそんなにこわくないのに。少なくとも手を出すわけがありません。夢でよかった。すべて終わったのだから、今の夢は覚えていたくありませんし覚える必要もありません。でももう眠たくなくなってしまいました。     

 とけいを見るとまだ朝の5時です。いつも惰眠をむさぼる私は今日は夢のおかげで日の出を見ることができます。

 私が今住んでいるところはいなかでもなく都市でもなく、海のそばです。毎日、もし早く起きれば太陽が海のむこうから昇って来るきれいな絵のような景色が見られますが、毎日ねぼうして、今まで一度も見たことがありません。でも今日は私は海が一番よく見えるところにすわって、その一瞬を待とう。  

 海風が岩の木の葉を戦がす音と海鳥の声が聞こえます。朝のちょっと寒い風が私の頬を撫でて、非常にいい気持ですが一人ですから、ちょっとさびしい感じもします。  日の出までまだもうちょっとありますが、さっきの夢が私の頭に自然に浮かん で来ました。夢の中の疑問は私がふつうの時にも考えているのと同じことです。日本人はほんとうに働きすぎる、と思います。日本料理の仕事だけでなく、全てです。過労死は世界に有名になっています。そして日本は過労死のあるただ一つの国です。面積は、37万平方キロメ−トルの小さい国、戦争を過して、残したその傷跡を一つ一つ直して、そして世界の先頭に立ちました。たった四十年でイギリスやフランスなどを追い越して、今一緒に先進国の列に入っています。四十年は歴史の歳月の中ではほんとに短いです。日の出のようにほんの一瞬です。 四十年で今科学技術も進歩し、生活環境もきれいな日本を造るには、働きすぎる人達の努力はなくてはならないと思います。

 日本人の仕事についての観点は速度と効率が第一です。どんなことをする時でも先ずこの二つが必要です。さっきの夢でもやっぱりこの二つの為に上司にしかられていました。ところで、日本人は自分の将来の為にがんばっていますが、私も大きな夢を持っています。それは私の力で自分の会社を造るということです。だからがんばらなければなりません。     

 考えている間に、一条の金色の光が海のむこうから射して来ました。そして金色は海面に広がって、海面をすべって全体を覆った時に、待ちに待っていた太陽がやっと昇って来ました。この偉大な一瞬に私は自分が太陽の中に溶け込んでいる感じがして、夢心地の気分でした。このきれいな太陽を通して、私の夢が見えます。中国ならこの夢は最後まで夢なんですが、日本なら多分実現させられます。 私はもう日本へ来ました。ですから日本人のようにがんばろう。私は突然太陽に「ありがとう」と言いたくなって来ました。私は太陽の方に向かってそう言おうとした時に、突然「ビービービー」という音がきこえました。   

 目がさめてみると小さな部屋に新鮮じゃない空気がこもり、朝寝坊しない為にきのう買ったばかりのメザマシとけいがまだ鳴っています。また夢だったのか。人間にとって夢がいろいろありますね。今度もまた夢ですか。夢でも、現実でも、私の夢はきっと現実に変えられると信じています。  

 さぁ、仕事に行こう。

 

上級

「温泉に行きたい」  ジーン・メリデオ(アメリカ)

 私は三年間英語の教師として日本に住んでいた経験があるので、今度学生として再び日本に来てから、そんなにめずらしいと感じるものに出会ったことはありません。しかし、もう一度経験してみたいことは多いです。その中で、一番またしてみたいことは、温泉に行くことです。  

 故郷には温泉が少なくて、温泉に行くという習慣がありません。初めて温泉に行ったのは、来日してからのことでした。国で自分でシャワーを浴びられる年齢になってから、お風呂にあまり入ったことがありませんでした。そのため、日本に来る前は温泉の事を全然知らず、お風呂に入ることもあまり好きではありませんでした。  

 しかし、私は水とはきってもきれない環境に育ちました。それは父から受け継いだものかもしれません。まだ幼稚園に上がる前の小さな子供の時に、父は海で泳ぎ方を教えてくれました。小学生になって、町の水泳クラブに入りました。その時から高校を卒業するまで、プールや海に入った日は入らなかった日より多かったと思います。夏でも冬でも、病気の日以外、平日には、近くのプールで遊んだり、クラブ活動をしたりし、週末には家族全員で海へ行ったりしたものです。毎年の夏の家族旅行にはメイン州の大きな湖の近くへ行きました。いつどこで何をしていても水とは深い関係があったように思います。  

 水の中にいる時間が魚のように長い毎日が続く中で、わざわざ浴槽に首までつかってお風呂に入る気になれず、さっとシャワーを浴びるだけですませていました。毎日水泳するのをやめてからも長い間、カラスの行水より短時間のシャワーを浴びるだけでした。  

 日本の住宅事情は、来日してから次第に分かってきました。国で和室の写真などを本で見たことはありましたが、日本のお風呂はこれまで想像もできないものでした。どうしてそんな深い浴槽が必要なのかとか、どうしてガスの栓があるのかなど、全然分かりませんでした。最初、日本で住みだした部屋にはシャワーもありましたので、浴槽の使い方など気にとめず、以前通りのやり方を続けて暮らしはじめました。数ヵ月たって日本での初めて冬が近づいてきました。周りの日本の人達が「今日早くお風呂に入りたい。」、「今年温泉に行きたい。」とか「夕べのお風呂は気持ちよかった。」など言っているのを耳にしました。どうしてみんなお風呂や温泉の事がそんなに好きなのか不思議に思ったので、日本人の友人に聞いてみることにしました。友人は、「百聞は一見にしかず、と言いますから、一度温泉に行ってみませんか。なかなかいいものですよ。」と言ってくれました。  

 仕事の帰り道、温泉旅行のことを考えながら、通りかかった旅行会社に立ち寄り、パンフレットを何枚かもらいました。大阪で全然見られないきれいな景色や真っ青な海やおいしそうなカニの写真がいっぱいのっていました。温泉が好きにならなくても、そんな美しい所なら是非行きたいと思いました。  

 友人とお財布と相談してから、和歌山県の勝浦温泉に行くことにしました。ちょっと高かったですが、忘れられない思い出になりました。十二月中旬の土曜日に四人で和歌山へ向かう列車に乗り込みました。田舎の景色や泊った温泉宿の和室の客間やカニの料理も素晴しかったですが、一番強く印象に残っているのはその温泉です。人々が同じ浴衣を着て、客間から温泉の入り口まで歩いて、入り口で男女が分かれていく様子は興味が深かったです。友人達と女湯へ向かい、浴衣を脱いで、シャワーの方に行きました。私は初めてでしたので、ちょっと恥ずかしくて、友人の後について行きました。小さな椅子に座りながらシャワーを浴びたことのない私の気持ちを友人は察してくれて、人目を引かないようこっそり日本の体の洗い方を教えてくれました。とてもきれいな体になってから、一緒に広い温泉につかりました。勝浦温泉は、海を向いている洞窟にあって、何とも言えないほど美しかったです。洞窟の三角の開口部から、どこまでも広がっている太平洋が見られて、波が打ち寄せる音を聞きながら、心が穏やかになって気持ちがよかったです。まるで楽園にいるようでした。この時日本人は熱いお風呂が好きなんだなあということを実感しました。  

 この旅行の後、やっと一つの日本人の考え方が分かってきた気がしました。親しい友人と一緒に静かな所でいやな事を忘れて、温泉につかる心地よさは、ほかに比べるものがありません。  

 私はぜひもう一度温泉に行きたいと思います。

 

「ありがとう、お父さん、お祖父さん」  曹 秀紅(中国)ツァオ・ショウ・ホン

 私は中国大連で生まれました。二十才になって初めて日本に来るまでは、高校の教科書から得た知識や情報だけから、日本の事を想像していました。日中戦争の事など、日本への思いはあまり良いものではありませんでした。そんな私に日本を大好きにさせてくれた二人の人物がいます。一人は私の実の父で、もう一人は私の日本のお祖父さんです。私の父の職業は水産養殖業です。十六年前、中国の優良青年として、日本の青森県へ養殖技術を習いに研究生として一年間来日した五名の中の一人です。私と母にとっては父のいない家庭はとても寂しい一年間でした。しかし、父は日本人の家に住み、主人と何でも気軽に話し合える友達になり、研究に友情に遊びに充実したあっという間の一年をすごしたようです。父は帰国後、思い出話を楽しそうに話してくれました。日本の風俗、日本での研究成果、労働者の勤勉さ、日本の研究者との友情など、うらやましくて仕方がない話ばかりでした。それらの話は、私が教科書から想像した日本とはまったく違うものでした。私も日本へ行きたくてたまらなくなりました。そして日本語の勉強を始めるようになりました。初めは簡単な挨拶を父に教えてもらいました。  

 私が二十才になった時、美しい桜の国、日本へ来るチャンスがやってきました。父が青森でお世話になった友人のご両親の住まいにお世話になることになりました。お祖父さんとお祖母さんの二人住まいで、二人共とてもやさしい方でした。お祖父さんは公務局を定年退職して、気楽な生活をしておられました。私が寂しい時、悲しい時はいろいろ話をして下さいました。「外国人が日本の習慣にすぐ慣れないのは当り前のことだけれど、今、日本人が使っている言葉は古い時代に中国から伝わって来たものが多いので、日本人は習慣や人情など中国人に近く、すぐに慣れるよ」と言うお祖父さんの言葉に気持が急に楽になったのを覚えています。お祖父さんは、日本語や日本の歴史を教えて下さいました。初めは私も日本語に自信がないので、お祖父さんが熱心に繰り返し教えて下さったので、自信をもって話せるようになりました。学校で習った言葉や文法も、お祖父さんやお祖母さんにできるだけ使ってみるようにしました。毎日勉強をしていると、とても疲れて、元気をなくすこともありました。私が元気がなくなった頃合を見はからって、お祖父さんは日帰り旅行に連れて行ってくれました。「たまには観光に出掛けるのも日本語の勉強になりますよ。」とお祖父さんは言っていました。こうして週末の毎度の日帰り旅行で楽しく印象的な思いでを沢山作れました。京都の清水寺、金閣寺、銀閣寺、永観堂、奈良の奈良公園や大仏殿では古い日本の文化に接することができました。名古屋や神戸へも連れて行ってもらい、楽しい思いでと美しい写真が沢山できました。またお祖母さんにおいしい日本料理をたくさん作ってもらい、今までその味は忘れられません。こうして私の一年たらずの日本のお祖父さんとの生活は終り、帰国することになりました。  

 お祖父さんは病気になり、去年の十一月十三日になくなりました。入院中、中国にいる私は早く日本へ行ってお祖父さんに会いたくてたまりませんでした。急いで出国手続きをしましたが間に合いませんでした。お祖父さんに会えなかった事、これからもお祖父さんと永遠に会えない事はとてもつらいことです。今でもお祖父さんと一緒にに暮らした日々を思い出して、日本語を教えてくれたことを感謝しています。お祖母さんが病気をせず、長生きできるように心の中で祈っています。  

 私に広い視野と勉強のチャンスを与えてくれた父の深い愛に心から感謝しています。やさしいお祖父さん、お祖母さんからは日本語ばかりでなく、文化や歴史、日本人のやさしい心まで教えていただき感謝しています。これからも国を超える友情を結び、末長くおつきあいをさせていただきたいと思っています。私はまだまだ日本語の勉強に頑張ります。日本を大好きにしてくれた中国のお父さん、日本のお祖父さん、ありがとう。

 

「ホームステイ」  ハイディ・チェ(ポルトガル)

 昨年10月1日、私は留学生として日本へ来て、父の友達の村田さん、つまり私の保証人さんの家でホームステイを始めました。日本へ来たばかりの時、私は日本語の単語は少ししかわからなかったので日本人と一緒に生活するのはちょっと無理かもしれないと思っていました。でも村田さんの家族と私の家族は15年以上の友達で、以前からよく遊びに行ったり来たりだったので心配はあまりしませんでした。それに村田さんと奥さんも私を自分の子供のようにしてくださって、私はすぐこの新しい生活に慣れました。  

 日本人の生活のやり方と私の国の生活のやりかたは違いますから、面白いことも沢山出てきました。例えば、日本人はいつもお弁当を持って仕事や学校に行きますが、私にはお弁当を持って出掛けた経験はありません。ですから奥さんは私を連れてデパートへ行ってかわいいランチボックスを買ってくださいました。そして次の日からお弁当を食べる習慣が始まりました。これは面白いことだと思います。私はいまでも毎日、奥さんが作ってくださったお弁当を食べています。  

 私の国は小さい国だから皆は昼休みに家へ帰ってごはんを食べてからもう一度仕事や学校へ行きます。外で食べる人も多いですが、お弁当を使う人はほとんどいません。そしてお風呂も面白いと思います。日本人は座ってゆっくりシャワーを浴びてからお風呂に入りますが、私の国ではあまり寒くないのでお風呂を使う人は少ないです。でもお風呂に入るのは気持がいいことだと思います。  

 日本の食べ物は冷たい物が多いように思います。例えば、「明太子」とか「納豆」とかそういう物を食べるのは面白いと思いますが、私には明太子と納豆はどうしても食べられません。けれども刺身やおすしは大好きです。日本の生活と私の国の生活は違いますからホームステイの御陰で日本的な事もよくわかるようになって来て、いい勉強になりました。  

 私の教科書には「日本のお正月」という課があります。先生の説明を聞きながら私は今年の正月を思い出しました。文章を見ただけでは「お節料理」や「お供えもち」や「しめ縄」や「年越しそば」などは何のことか本当によくわかりません。けれども今年の大晦日に私は朝から奥さんを手伝って一緒にお節料理を作って、お供えもちの作り方も習いました。そして晩には村田さんの家族と一緒に年越しそばを食べてしめ縄も飾りました。  

 元旦の朝はしんとするほど静かですが、本当に沢山の年賀状が郵便受けに届いて、私も友達から年賀状をもらって大変嬉しかったです。そして娘さんのいとこ達と一緒に神社へ行って初もうでをしたり、お酒を飲んだりして楽しみました。  

 今年は素晴しい日本的なお正月を過ごしました。ですから先生の説明を聞く時、私は今年のお正月のことを思い出しながらよくわかるようになりました。また、ある日奥さんの友達の結婚式があって奥さんは奇麗な着物を着ました。着物を着る時一人では難しいですから私も手伝いました。本当にこんなに沢山着なければならないなんて、私は本当にびっくりしました。今私は着物の着方もちょっとわかるようになって一度着てみたいと思っています。これは学校の教科書で習えないことだと思って大変嬉しいです。  

 奥さんや娘さん達と話す時は会話の練習になり、日本人の考え方もだんだんわかってきて面白いと思います。時々遅くまでいろんなことを話しながら奥さんのいろんな貴重な経験が聞けて、教科書に載っていないことを沢山勉強しました。そのほか今、日本の洋風と和風を合わせた住宅もよくわかりました。村田さんの家は、伝統的な和室と床の間があります。床の間には日本の人形が飾ってあって、お祭りの時、皆はこの和室でご飯を食べます。日本の机は低くてたたみに座ることは普通ですが、私はすぐ足が痺れてきます。洋風のリビングルームもあって、そこにソファがありますが、娘さん達はあまりソファに座らないで、いつも床に座っています。これも私の国の習慣と違います。けれども今、私もいつも床に座るようになってしまいました。  

 村田さんの家族と一緒に住んでいるから、私は本当の日本らしい生活をしていることを感じています。ホームステイしてから、私は日本の文化も日本人の生活や考え方も、前よりもっと認識できるようになりました。これは知識の上での勉強にもなるし、人々と交際する上にもとても役立つことです。日本に留学する機会があって、私は自分の人生を豊かにするために、教科書の勉強だけでなく、いろんな事を習ったり経験したりしたいです。ホームステイの御蔭で私のこの願いが叶いました。  

 知識だけでなく、もっと広く豊かな勉強をするためには、ホームステイは何よりのことだと思います。そして、こんな素晴しいチャンスを与えてくださった村田さん一家に、心から感謝しています。