「音楽はこの宇宙の共通の言葉です。」これは私がよく聞いた古い諺です。でも、私にとって、ひとりの音楽家として、音楽は厳しい、そしておわりのない勉強以外のなにものでもありませんでした。まあ、それは私とピアノの先生の間の言葉だったと言えるでしょう。ともかく、私が日本に来る前はそう思っていました。
私が日本に来たあと、ごく自然にピアノを持ちたいと考えました。けれども、言葉の問題のために、周囲の人々と話すことができませんでした。ちょうどわたしの口は食べるだけのためにあって、小さい赤ちゃんと同じです。これは同じ様な環境の人にしか分からないでしょう。運よく、私はピアノを買うことができました。そして、ピアノを使って、音楽は私と私の内面の共通の言葉になりました。ピアノを弾くことで、私の心と音楽の世界はこの新しい環境の中で接することができました。
私は普通午後二時間ぐらいピアノを弾きます。私はピアノの音がご近所の迷惑にならないかとっても心配でした。日本では家と家がすごく近いですから、時々赤ちゃんの泣き声もよく聞こえます。日本に来る前に、日本に住んだことがある友人からよく聞いていましたが、日本では周囲に気をつかって、絶対にけんかをしない方がいいと言うことです。ピアノを買って、最初の数日は静かに弾いていました。でも、段々と私のいつものペースにもどってしまいました。そして、ある日、私が完全に練習に熱中していた時、ドアのベルがなりました。
私が最初に思ったことは「オーノー、どうしょう。」私は私の少ない日本語で、ちゃんと謝ることができるか心配でした。驚いたことに、彼女はピアノを弾いているだれかに、自己紹介をするために来たのでした。何故なら、彼女は大阪芸大を卒業した、ピアノの先生で、同じアパートの人達の中にピアノを弾く人がいて、びっくりしたそうです。玄関で私達は三十分ぐらい、私達の生い立ちと、それから、共通の話題である音楽について話をしました。彼女の英語は私の日本語と同じぐらいでしたが、私達はとっても楽しい会話をすることができました。それは、音楽が私達の共通の言葉だったからでしょう。
その日から、私達は仲良しになりました。実際、彼女は日本に来てから最初にできた日本人の友達です。私達は一緒に買物にいったり、クッキーをあげたり、もらったりしています。私達は時々日本の料理と私の国の料理の作り方を教えあったりもしています。彼女を通して、同じアパートの他の人達もしることができました。今では、私はどのお店が安くておいしいケーキを売っているか、いいお肉や魚を売っているかも分かりました。私達は会話の勉強もしています。私が彼女に英会話を教えて、彼女は私に日本語会話を教えてくれます。もちろん、辞書はいつも必要ですが、漢字がとっても便利なことが分かりました。よく私達は音楽について話しをします。そして、私達は違った言葉を話していたのに、私はこんなに早く友達になれたことが不思議です。多分それは音楽のお蔭です。
長い年月を経て、私は遂にあの古い諺「音楽は宇宙の共通の言葉である」と言うことの本当の意味が分かりました。音楽は私にひとりのいい友達を運んで来てくれ、そしてそれは、私の日本での新しい生活の小さな、でも大切な出来事だったのです。私はその諺の証人になったのです。
私は、日本語学校の学生です。そして、結婚後六か月になる主婦です。私の夫は、在日韓国人です。私たちの結婚式は、韓国でしましたが、夫の親戚は、ほとんど日本で結婚式をします。今年の三月にも夫の年下のいとこが、名古屋で結婚式をしました。私は、その時初めて日本の結婚式にいきました。韓国の結婚式と日本の結婚式は、似ていることもありましたが全般的雰囲気はとてもちがいました。
日本では、招待状がある人たちだけ結婚式に行くことができるとききました。そして、祝賀のお客様も百〜百五十名ぐらいだそうです。しかし、韓国では、招待状がなくても結婚式に行くことができます。私の結婚式でもやく六百名ぐらいのお客様がきました。日本では招待状を受け取った人は、結婚式にかならず参加しなければならないとききますが、韓国では招待状を受け取ってもいそがしければ、電話でのあいさつとか電報での祝賀だけでいいです。
しかし、食事の準備については、日本の場合の方がもっと便利だと思います。なぜならば、韓国の場合は、正確なお客様の数がわかりません。だから、よぶんに五十人分から百人分ぐらい十分にそろえます。お客様がたくさんこなければ、大きな損害を受けます。
伝統的に韓国では、結婚式がおわってから軽い食事を出します。メニューは”そば”です。”そば”は韓国では「長寿」のいみがあります。しかし、このごろはそばよりプルコギ(焼肉)とかルビタン(カルビスープ)などがにんきがあります。私の場合には、ホテルで西洋料理を出しました。
私の結婚式を見て人々は、”とても華麗だ”といいました。しかし、名古屋のいとこの結婚式を見て、私の結婚式は日本ではほんとうにふつうだったと思いました。
日本の結婚式は、ほんとうに、とても、華麗でした。きりがなく出てくるフルコースの料理−日本料理、西洋料理、デザート、プレゼントまで・・・・。日本人は、小食だときいたのですが、たくさんたべるのですね・・・・ほんとうにびっくりしました。また、食事の中に新婦が三回も服を着がえてきたので、またびっくりしました。
韓国の新婦も、三回服を着がえますが、食事中には着がえません。
私が、日本の結婚式で一ばんよいと思うことは、お客様が全員正装して結婚式に参加することです。格式に合わせて正装をしたお客様が、結婚式の神聖性、荘重性、祝福などをかんじさせてよかったです。韓国では、ふつうの洋服をきたり一ばんきれいな服をきて結婚式に参加します。とてもいそがしい時はジャンパをきてしごとの途中に結婚式に来てもだいじょうぶです。どんな服をきているのかより、参加することにもっといみがあります。
また、結婚式に参加だけして披露宴に参加しないではやくかえるお客様もあるので、結婚式がすこしうるさい雰囲気になります。しかし、そのうるさい雰囲気が「韓国的な親近感」ともいえます。
日本の結婚式は、完璧なドラマをみるようでした。司会者の演出、主演の新郎と新婦は無駄なくミスなく動きます。お客様は全部位同じような正装をして・・・・。たぶんこのような結婚式の風景は日本のどんな結婚式でも同じだと思います。日本の結婚はほんとうは、”結婚式のために結婚するのではないか”という思いになりました。
私がかんがえる一ばんよい結婚式儀式は、韓国的な親近感と日本の格式を重んずる雰囲気が調和して一つになる時ほんとうに最高の結婚式になると思います。
結婚式だけでなくいろいろな面で、互いに良い点をすこしずつうけいれたら、二国はとてもすばらしいハーモニーをつくることができるのでは・・・・。私は、結婚式ひとつを見ていろいろなことをかんがえました。
日本は世界によく知られている國です。日本にはたくさん面白い事があります。今年四月八日に私は日本に来ました。その時大きなカルチャーショックを体験しました。日本の文化は西洋の文化とは違いました。他のアジアの國とも違いました。
私は日本でたくさん友達ができました。みんなは私に親切で、関西の有名な所に案内してくれました。でもほとんどの日本人はアメリカが危ないと思っているようです。時々こんな質問を私にします。「アメリカは犯罪と麻薬と病気などが一杯の國なのですか?」そ の質問がきっかけで、私はレポートをかくことを決めました。日本人数人と話した後で、みんなが銃を一番心配していることがわかりました。アメリカ国民はアメリカを銃を所有することのできる唯一の國だと思っています。けれども誰でも平和な町の中で銃を持ち歩くことが出来るという意味ではありません。実際は警察だけ出来ます。ではアメリカ人は なんのために銃を買うのでしょうか。主な理由は二つあります。一つ目は、ある人は昔祖先がしたように野外で狩猟することが好きだから銃を使います。二つ目は、銃を買って自分を保護するためです。ある人はアメリカはテレビや映画による影響が強いと思っていま す。テレビや映画のように危ない所があることは事実です。けれども大抵の所は安全です。 特に田舎の所。アメリカの田舎の生活様式は平静でのどかです。
最近、アメリカではみんな銃を管理することを論争しています。その問題は昔からありました。何故この問題がまだ(解決し)ていないのでしょうか。それには少しアメリカの歴史を理解することが必要です。昔、アメリカが独立した時、人民は自由な國を建てたいと思いました。だから、その観念は憲法の最初に述べられて、世代に伝えられました。そ の理由で、みんなの独立思想は強いです。だから、彼等はあらゆるものが政府で決定されることが好きじゃないのです。もし、政府が強制的な実行をしようとしたら、人民は自分の信念のために抵抗をします。このような思想からアメリカの銃問題はありました。
実は銃そのものが問題ではなく人民の考えの問題なのです。それはあくまでも私の意見 です。銃は安全でもあり危険でもあります。でも、銃は無罪です。もし、銃が凶器なら、 ナイフも凶器でしょう。誰が使うかによって、銃の持つ意味は変わってくるのです。犯罪 を止めるためには、人民が是非を判断できる教育が必要です。銃を管理することは犯罪率 を少し低くするだけにすぎません。でも、それは一番よい方法じゃないと思います。
日本にはけしきのいいところが多いです。私は歴史の町、京都に行ったことがあります。ここは「山紫水明」の地と言われるとおり、京都の自然美は抜群です。春や秋には遠く外国からも京都の美を求めて多くの人がやって来ます。西南の方角に高い五重の塔があります。これが有名な東寺の塔です。この塔は、お寺の多い京都の町のシンボルかも知れません。美しい庭園、落ち着いた雰囲気、古式ゆかしい伝統行事に充ち溢れているのが京都です。内外の人々をひきつける要素が京都にはそろっています。
私をびっくりさせたものは日本の川です。日本の川は大きな滝のように見えるのです。じつは百年ほど前に来日したオランダの技術者は、初めて日本の川を見た時、おどろいて「これは川ではない、滝だ」と言ったそうです。日本は急流の川が多いので、大雨が降れば、すぐあふれてしまうと思います。それに交通にもあまり利用できないようです。
その次に珍しいのは日本のきものです。
私は日本のきものが好きです。私はきものを着るとやさしくなるような気がします。でも日本に来た時はほとんどの人が洋服を着ているのを見て驚きました。どうして?はじめ、私はぜんぜんわかりませんでした。それで私は日本人にききました。かれの話によると第二次世界大戦後、日本人の生活は大きくへんかして、洋服を着るようになったのだそうです。着物は、大変美しいが着るのに時間がかかるし動きにくいです。特に階だんを上がったり、自転車に乗ったりスポーツをしたりする時、不便です。しかし洋服はきたり脱いだりするのもかんたんだし、動きやすいです。それでようふくをきる人が増えてきたのです。今着る人の少なくなったきものは正月や成人式、結婚式など特別な時にだけ着るものに変わったそうです。
ベトナムの民族のものはアオザイです。私は大好きです。日本のきものとちがって、今でもほとんどのベトナムの女の人は学校へ行く時、会社ではたらく時・・・アオザイをきています。
私はもっといろいろ話したいですが、わからないことばがたくさんあるのでできません。私はこれからも一生懸命勉強して言いたいことが自由に表現できるようになりたいです。
私の夢について今まで真剣に考えたことはない。私は幼いころから見た目と違って体も弱く何もかも長続き出来なかった。そのために自分の部屋にこもることが多く、パソコンが私の相手になってくれた。パソコンと言えばゲームだけを思い浮かべるかもしれないが、パソコンの世界は信じられないほど、その使い方や情報が膨大で、若い私にすごいときめきをあたえてくれた。私のコンピューターは私の手で組み立てられて、コンピューターに対する私の夢は広がった。日本にくる前にコンピューター会社で仕事をしていたこともお金を稼ぐためではなく、私のコンピューター好きによるものである。そのコンピューター好きは私を止めるところがなかった。気の弱かった私を日本での勉強へと決心させたのである。今まではなかったやる気にさせたのもコンピューターのおかげだと思う。
私のふるさとは「清州」という名のとおり空気も清く、人情の厚い四十万人の小さな都市で、私は人生の二十年余りをここを離れてくらしたこともない。それに比べて兄や姉達は冒険心が強くいろいろな所を旅行して、今はみんな清州以外の所で生活している。そのため私につけられたあだ名は「いなか者」。日本にくる前の晩におじさんにさえも「おい、いなか者の出世だね」なんて言われてしまった。それは私が日本で頑張ってほしいという気持ちの表現だと思うけれど、私は少しも嬉しくなかった。それはただ「いなか者」と呼ばれたからではない。今までの生活の場を離れて言葉が通じない土地への出発だと思うと口では言えない心細さと不安の気持ちでいっぱいだったからである。以前私は日本に旅行したこともあったので、そんなつもりはなかったし、またみんなにそんな姿を見せたくもなかった。それにもかかわらず「ハハハ」と笑うことも出来なかった。前に日本で見たコンピューター部品を頭に浮かべながら「頑張るぞー」と自分に言い聞かせたのである。
関西国際学友会日本語学校に通いはじめて大阪での生活にも慣れてきた。やっと大阪人や大阪の町を観察する余裕も出てきた。韓国の友達に「日本の女の子はみんなきれいだね」というと「ソウルにもかわいい女の子は多いんだよ」と懐かしげに話した。私は自分の「いなか者症」にはしょうがないかと思いながら一人で清州を思い出す。そのうちにいつもたどり着くのは「日本橋」のコンピューターの店々。実際欲しいものは買えないのが残念でたまらなかったが、日々変わるコンピューターの情報を得ることはできる。そのような私の日本橋好きはコンピューター部品の買い集めの準備段階でもあった。しかし、ソフトウェアとハードウェアを買い集める際に日本語の限界にぶつかり、世界共通語だと思ったコンピューター用語も通じなかった。例えば韓国ではコンピューターではコンピューターのメインボードの一つである「ベースボード」が日本では「VL」と略字になっていることも後になって知ったことである。学校の先生から聞いた話からも日本人は英語を好んで日常生活にもつかい、さらに略が多いということは知りながらも実際のところ全然わからなかった。アーアー、私の日本語の限界のためなのか買い集めた部品の組み立てはできたものの、モニターに写ったのは割れた字であった。店の人とコンピューターの互換性について十分な話しもできず、買ったためである。コンピューターをなおすために私の日本語の勉強はとどまるところはなかった。私は友達に「どうしてそんなに勉強するのするの」と聞かれたりしたが素朴な夢は明かす事なく黙々と勉強を続けた結果、今は行きつけのコンピューター店の人といろいろな相談をすることもできて求めた部品を間違いなく買うことができる。最近は最近はコンピューターの雑誌も買って情報収集はもちろん日本語と日本文化にもふれることができてとてもうれしい。
日本に来て私の素朴な夢の広がりとしてはコンピューターの組み立てでの失敗だけではない。一九九五年一月十七日未明の阪神大震災で大変な被害のうえに生活ラインまで切れて大混乱が起きたが、コンピューター通信は住民の安否を乗せて日本全国を走ったのである。現代社会の弱点によって地震の被害が大きくなったとも言うが、現代文明そのものとも言えるコンピューターが人々を助ける大役を果たしてくれた。それはコンピューターがが趣味である私にとってとてもうれしいことであった。コンピューター通信が人々を助けたことは私のコンピューターの勉強に対する気持ちをもっと強くさせた。私の素朴な夢によってがっかりしたこともあったが、私を強くもしてくれたのである。頑張るんだよと。
人によって趣味も違います。いわゆる十人十色です。私の趣味は登山です。見た目では小さい体を持っている私なのにかなり体力の必要な登山という運動が好きだと言ったらたぶんだれも信じないでしょう。ところが体が小さく弱いからこそ私はこの運動が特に好きなのです。
登山といえば父とあのふるさとの山を思い出します。小さいとき私の家は山に囲まれた小さい町にありました。そのとき、子供達は学校が終わった後、いつも周りの山で遊んでいました。そこに私たちの小さい夢がありました。頂上に登っていって、そこの眺めを見に行きたかったのです。
ある日父が私と姉をつれて一番高い山へ登りに行きました。「よし、頂上にいくぞ」父が言いました。しかし、そのときまだ町の子供たちはだれもこの山に登ったことがありませんでした。
険しい山道を見ると私と姉は呆れました。でもずっと一度頂上に行きたいと思っていた私たちはやはり父と一緒に楽しく昇りはじめました。始めは面白く、登っていきましたが登れば登るほど疲れてきました。目の前は果てしない山道ばかりでした。足もだんだん重くなって棒のようになってきました。ついに頂上に行くという最初の目標をあきらめました。
「お父さん、もう駄目だ。帰りましょう」と父に話しました。
父は足をとめて「私たちはもう山の半分まで来たよ、今負けたら今までの努力は全部無駄になるよ、頂上に行きたかったらもっと頑張ってくれ。かならずいけるよ。無駄になっても大丈夫と思うなら帰る。お前ら自分で決めて」と真剣に言いました。
私と姉が登ってきた道を見たら既に山の半分まで来ていました。山の下の建物や人が小さく、周りの景色がきれいです。もしも、頂上にいったらもっと美しいだろうと思います。でも登るときの大変さを思い出して、迷っていました。
「頂上の景色を見たかったら、まず登山の苦労を味あわなくてはならないよ。」父は私達の目を見つめながら言いました。私と姉は頂上に行くことを決意しました。
今でもその後の道を覚えています。私にとってはあの道が渾身の力をふりしぼった道でした。頂上にいってそこの景色を見たいという夢だけを持って、父の助けと励ましのおかげでやっと頂上に着きました。頂上に着いた瞬間に私達は周りの景色に感動しました。夕日に照らされた大地が遠いところに消えていき、黄昏の空が周囲に延々と伸びていく山々を被って一体になっており、私達もこの大自然と融合されていると感じました。幼い私はどういう風にその景色を表現すればいいのかはわかりませんでしたが、目の前の今まで見たことのない景色のすばらしさに感動しました。疲れを忘れ、姉と抱き合い、喜んで跳びまわりました。あれは多分私の人生の初めての成功の味わいでした。一生忘れられない感動でした。
子供の時代は既に風とともに去っていきましたが、でも、その時の父の言葉と頂上の景色は常に私とともに月日を送りました。人生の道で困難と挫折に遭うたびに私は故郷のあの山を思い出し、「頂上の景色を見たかったらまず登山の苦労を味あわなくてはならないよ。」という父の話に励まされ、勇気がわいて歩き続けました。私はずっと山の頂上に成功の感動があると信じています。そこに私の夢のすべてがあります。
人生の道は登山と同じように長く険しいです。恐くて後退するとそれまでやってきたことが全部無駄になります。疲れても遠くに夢があると信じて、あきらめずに努力すればきっとその頂上の景色が見られるでしょう。きっとその成功後の感激が味わえるでしょう。
私は登山が好きです。登山から「苦」と「楽」をあじわうことができますから。そしてそこに私の夢のすべてがあるのです。
私は今年の四月、ちょうど日本の桜の花が満開の時、日本へ留学して来ました。日本へ来る前に阪神大震災とかサリン事件とかいうひどいことがあったと聞きました。日本へ来た後これらのことはだんだん平穏になったそうですが、あることはまだ存在していますし、私に色々考えさせてくれました。以下は日本の春に感じた事です。
ある土曜日の夜、私は寂しかったので部屋を出てちょっと散歩しましたが、途中でテレビを一台発見しました。どうしようかと思って、早速家へ帰ってシーツを持って来て外の人に見られないようにこっそりとテレビを包みました。私は泥棒だと思われなかったかと心配していました。寮の出入口の人に注意されないように心からの嬉しさを表に出さずに隠れるようにして家へ戻りました。家に入ってほっとしてやっと気を緩めました。電気をつけてテレビのスイッチを入れて画面がはっきりと見え、きれいな声が聞こえました。これは白黒テレビじゃなくて、カラーテレビですよ。「わ、すばらしい」と大声で叫びました。もしいつもこんな事があれば私は大金持ちになるだろう。これは日本へ来て一カ月たらずの私にとって最高の事だと思っていそいで家族の人や友達に手紙を書くことにしました。彼らに宣伝しよう。みんなきっと喜ぶだろう。それにきっと想像できないだろうと思いました。手紙を書き終わるともう夜の十二時だったけれどなかなか寝られませんでした。もしあなたがこんな事に出くわしたら私と同じような気持ちになるでしょう。
翌日の朝、早く起きて元気いっぱいでした。そして日本で長く生活している友達の部屋へ遊びに行きました。自分の嬉しい事を言いましたが、びっくりさせられたのは友人じゃなくて私です。なぜかというと、これは日本では非常に普通な事だと言われました。日本人はふだん使えないものや、家をひっこしする時捨てるものがたくさんあります。これはごみです。ごみ?不思議ですね。ところが次の一カ月の中でテレビの外に掃除機や冷蔵庫なども見つけました。ごみおき場の所にはもっと多かったです。これらのごみから私は色々考えました。
私は中国にいた時、中国の日本の会社に勤務している日本人の家へよく遊びに行きました。いっしょに食事をした時、ご飯粒がいくつかテーブルの上に落ちました。彼は全部拾って食べました。
それに「おしん」という日本のテレビの連続ドラマが中国で上演され、みんな感動しました。とくに若者達には節約させ今日の幸福を大切にし努力して頑張らせなくてはいけません。また、日本で有名な社長は一度使った封筒を裏返してまた使うという話もありました。これを聞いて私は日本人は倹約家でまた勤勉だと思いました。しかし今どうして使えるものをたくさん捨てるのでしょうか。日本人の意識が変わったのですか。日本は進んだ国、礼儀正しい国、とくに経済大国として世界で有名です。急激な経済発展が世界の注目を集めています。しかし日本人はみんな金持ちではなく一部分の人はまだご飯がない状況です。貧乏な人や困っている人もいます。もっと広く言えば今戦争中の国の人々は家族を失っているし、アフリカの多くの人達は食べ物もありません。もし私達が一人一人が一円出せば日本全部で何億円になるでしょう、金を節約して貧乏な人を助けることはいい事ではありませんか。私達若者は今勉強して豊かに生活していますが彼らは服もないし、食べ物もありませんから、もちろん勉強することなど考えることもできません。私はこの機会を利用して日本人及び世界中の人々に使えるものを捨てないで節約してもらいたいと心から願っております。貧乏な所の人々が私達と同じような生活ができるように少しずつ節約して、彼らを助けようではありませんか。私達は責任を持って力を尽くして世界中に愛と平和をもたらしてゆかねばなりません。
その日のことは、私が言わなくても、だれでも知っているであろう。
一月十六日(日曜日)。私の長い留学生活の中で最もうれしかった一日。その日、私は神戸に行った。
それはあなたが初めて見せてくれた「僕の神戸」であった。そして私にとってもそれはイメージの中の最初で最後の神戸であった。
寒くなると、私はいつも垂水を思い出す。JRが須磨、垂水の海浜に沿って走って、冬の陽光があなたの顔を照らしつけていた。海の上に輝かしく照り映える光の中に、水鳥は静かに立って、水鳥の体の縁に明るい金色の線がはっきり見えて、とても詩的な素晴らしい景色であった。本当にこの山と海がはっきりしている明るい空間感覚が私はとても気に入っていた。
大学院を卒業し、会社に入る前の一年半、あなたは垂水、兵庫、そして北野で辛い生活をよく頑張ってきた。その時あなたが住んでいた小さい部屋の家賃はたった八千円で、冬骨身にしみる寒風が窓の隙間から入ってきて、ガラスはガタガタ音がした。家財といえるものは一台の古い机、小さいコタツと中古テレビしかなかった。お風呂もついていないので、中国の南方から来たあなたが直面する最も大きい難題は入浴の問題であった。しかし、神戸の美しい海辺の砂浜、懐かしい横町、さらには道の店や電信柱もあなたの故郷のと非常に似ているのでこんな簡素で暖かい景色の中に、異国に初めて踏み込んだあなたはすぐになじんだ。清々しい空気や、閑静な道や、親切な隣人や、大きいとは言えないまでもとても便利な商店などが、あなたに日本で生活を続ける自信をつけさせた。
その日、神戸で、日本に来て三カ月未満、当時のあなたと同じような境地にいる私に、あなたは自分の奮闘の物語を親切に伝えた。その時のあなたは、その自慢の表情がまるで神戸市長のようだった。でも私は本当に神戸があなたの町であることが理解できる。
実はハーバーランドに薫風が吹く時、北野の風鈴が鳴る時、あなたが何を言わなくても私もすでにこの町のすべてを好きになっていた。神戸に恋をした。この私の故郷寧波と同じような秀麗な町、どちらも國の中で一番早く開放された有名な港である。元町の一番街の近くで突然鼻についた特別な胡麻の香りは、深く深くわたしの思念を「寧波湯園」の追憶の中に引き込んだ。その私の魂を引きつけた懐かしい匂い!この町神戸は私の故郷と一番近い、私が好きな人と一番近い。
その日私の胸に歌がいっぱい溢れていた。「いい日旅立ち・・・」
これは災難が到来する前の静かな日曜日、人々は幸福そうに街の中を散歩したり、買い物をしたりしている。立派なホテル、マンションなどが立ち並んでいる人工の島が遠くに遠くに見える。炎、煙はまだ廃虚の都市の中に立ち込めていない。あなたはまだ未完成なビデオ「垂水の冬」「北野の恋人たち」そして「朝焼けと夕焼けの対話」を私に見せたいと話していた。
そして次の朝、みなさん知っているように、災難が人々の甘い眠りを破った。関西を襲った巨大な地震は神戸を中心に壊滅的な被害を引き起こした。その時、あなたは部屋が壊れた友達を救うため、大阪から4時間もかかって自転車で神戸に走った。武庫川を越えるとき、戦争のような炎光とヘリコプターの巨大な音の下で、あなたは大きく素晴らしい満月を見た。その夜、災難区の中で一日何も食べていなかったあなたと友達はラーメンを食べた。この味は永遠に忘れられないだろう。そのラーメンは小さい車に乗せて、火の街に応援に回ってきた。ラーメンの値段は五百円であった。
壊滅前の神戸の素晴らしい美しさを見た私に「またつれていくわ」とあなたが言った。しかしまたいつかそんなチャンスがあるか、私もあなたもわからないであろう。でも私は永遠に、その日を懐かしんであなたとあなたの神戸を覚えている。心から神戸の町の復興を願う。
1995年は阪神大地震から幕が明けました。大地震の経験がまったくなかった私にとっては想像もしなかった怖ろしい出来事でした。テレビを通してみる現場の悲惨な光景に胸が痛みました。そして被害者の顔に私の家族の顔がダブって見えて涙がとまりませんでした。家族をなくした方々の痛みが国境の違いを越え、一人の人間としての私に伝わりました。しかし時間がたち地震の記憶がやや薄れるような時期に今度はオウムの事件がおきました。地震というのは人間の力ではどうしようもないことですが、オウムの事件は人間自ら他人を傷つける事件で、特に宗教という本来の意味を忘却した実に恐ろしい集団でした。しかし、私はテレビを見ながらなぜかオウムに向けてあまり怒りを感じられませんでした。彼らの仕業はたしかに全世界から糾罪されなければなりません。なのにどうして私はオウムに対する怒りより、報道、ジャーナリストに対する憤怒がもっと大きいのでしょうか。麻原代表が検挙された時放送が彼に集中されました。ある日のニュース、あるニュースゲストは麻原代表が逮捕される前までメロンにステーキ、ハンバーグ、すしなどを食べていたと言いながら一般信者らの食生活と比較し、こう言いました。”メロン、メロン!ステーキ、ステーキ!”だと。
ニュースの特性は正確な情報を公正な姿勢で伝えなければならないと私は理解して思いましたが、その場面では個人の好みについて軽薄な態度で冷やかしているとしか思えませんでした。
オウム真理教に対するおびただしい報道は、どの番組でも同じでした。どの番組をみても、同じ顔の人が繰り返し同じ表情で同じ話しをしていました。あたかも獲物を見つけた猟人みたいな残酷さと楽しさを味わっているような感じでした。
この事件についてマスコミは客観的にそしてもうちょっと真面目に報道、放送する義務と責任があるんじゃないかと思いました。
ある日、テレビで見ました。オウム真理教のある信者の父母が泣きながら”私の息子を返して下さい”と言いました。自分の息子がオウムに入った原因は考えないで、まるでオウムにすべての責任があるような言い方をしていました。もちろん、オウム教が邪教であることは今では誰もが信じていますが、それは別として、その息子は自分の意思をもって自分の判断で入教したと思います。
自分で選んだ以上は、結果についても責任をもたなければなりません。それなのに両親は自分の子は良い子なのに相手がだましてこうなったのだと言いました。それは、自分の子供を一人前の人間としてみていないからだと思います。オウムは悪い。しかし、自分の子供(もう大人になっていますが)を大人としてみないで、いつまでも子供あつかいをする父や母にも問題はあるでしょう。
私の日本での生活は短いです。今から始めていかなければならないのです。そんな私にとって一番大切なのは、日本を客観的にみて、ありのままの日本を理解することです。
今度のオウムの事件を通じて感じたのも、客観性の重大さでした。そして大人なら自分自身に対する責任は自分で負うべきで、まわりの人ではないということです。
日本に来て一年半、いろんな出会いがありました。その中でも一人のおじいさんとの出会いは私の心に深く残っています。
今年の春休み、里親の家族と一緒に里親の郷里に連れていってもらいました。そこで、田舎にいる里親の叔父さんのところを訊ねました。
おじいさんは今年七十七歳になります。子供がいないため、ずっとおばあさんとの二人きりの生活をしています。今年に入ってから突然体調を崩してしまい、一人で生活ができなくなりました。おばあさんも年をとっていますので、仕方なくおじいさんを老人ホームに預けました。私はその老人ホームでおじいさんと出会いました。
おじいさんは元気な頃はとても強かったと聞きましたが、会った時は全く元気がありませんでした。みんながおじいさんに「早く元気になって、家に戻りましょう。」と言いましたが、その時おじいさんは「どうすれば元気になるのかわからない。」と呟いていました。
一瞬、私はまさに一人のお年寄りの「元気を取り戻したい」という心の叫びとともに、半面あきらめるしかない、「死」を待つしかないという悲しげな姿に強い印象を受けました。
実際、おじいさんは「運動はいかがですか」と聞かれても、積極的には参加しようとはしません。集団生活に慣れないから、老人ホーム内の体操などの活動をいやがっていたと看護婦さんに言われました。
その時、私はおじいさん一人ではなく、おじいさんと同じ気持ちをもっているたくさんのお年寄りたちの本音がわかった気がしました。その日から、私はこれまでぜんぜん思いもしなかった日本の老人社会についていろいろ考えるようになりました。
すべての人間は年をとっていきます。「不老長寿」というのはあくまでも人類の見果てぬ夢です。調査資料によると、二〇二〇年の日本の総人口一億二千八百三十四万人のうち、六十五歳以上の高齢者が総人口の二十五パーセントを占め、つまり四人に一人は六十五歳以上の「高齢者」という本格的な高齢社会になると言われています。しかも、その半数近くが七十五歳以上の高齢者だと予測されています。世界でも例を見ないほどの速さで高齢化が進んでいます。そして、私達若者が将来に向けて、どうすれば理想的な長寿社会に近づけることができるのかという問いが国民的な課題となっています。
確かに、日本は経済の面において、よく豊かな國だと言われています。発展途上国にとって、見習うべき國です。しかし現在の日本の老人社会はまだまだ豊かとは言えないようです。むしろ老人問題については貧国と言えるのではないでしょうか。年金制度の改善や老人保健福祉事業の推進などについてはかなり検討されるようになりましたが、それとは別に、私は大切な問題がまだあることに気がつきました。それはお年寄りの精神的な問題、精神的なケアについてです。
私の國、中国でも毎年人口に占める老人の比率が増えつつあります。いずれ同じ高齢化社会に入ると思います。中国のお年寄りと日本のお年寄りを比較してみると、かなりの違いがあるように思われます。住宅が少ないため、中国のお年寄りはほとんど家族と一緒に暮らしています。しかも二世代、三世代同居がぜんぜん珍しいことではありません。毎日家族の人々や近所の人と接する機会が多いので、老後の寂しさはあまり感じません。自分の人生経験や知識なども子供たちに教えることができます。「一人の老人は一つの図書館だ」と昔から言われていますが、中国のお年寄りはまさにその役割を果たしているのではないかと思います。それに、毎朝近くの公園に行って、お年寄りたちが集まり、太極拳や将棋をしたり、面白い話しや悩みなどを交換したりしています。自分なりに残りの人生を積極的に楽しんでいます。
しかしながら、日本ではそういう光景はなかなか見られないのです。子供たちが独立して核家族を形成し、たくさんのお年寄りは若い人と話す機会が少なくなり、せっかくの人生経験や知識を無駄にしてしまい、消極的にしか最後の人生を過ごさざるを得なくなっています。精神的な豊かさがどうしても欠けていると思います。
第二の人生を有意義に暮らせるよう、もっと高齢者の方々に活動の場を与えてみるのはどうでしょうか。いろんな選択肢があれば、それぞれの老後を楽しめると思います。
これから、日本は間違いなく老人大国になっていきます。自分たちの将来のため、豊かな高齢化社会を造るため、私たちはもっと議論し、積極的に考えていくべきではないでしょうか。