私は半年前に日本に来ました。その間いろいろなことがありました。そのほとんどを忘れてしまいましたが真理さんのことだけはどうしても忘れられません。
ある日、姉のみまいに病院へ行きました。同じ部屋に一人のおばあちゃんが入院していました。姉の話ではおばあちゃんは入院したばかりで、ちょっと熱があり、おなかも痛いのですが、どんな病気かまだ分からないようでした。私が姉と話をしている途中でおばあちゃんの娘の真理さんがおばあちゃんのおみまいに来ました。真理さんと姉が簡単なあいさつをした後で、おばあちゃんの面倒を十五分ぐらい見て、持って来た花とくだものなどをおいていそいで帰りました。
私には真理さんはとても忙しいのだというのが最初の印象としてのこりました。
一週間後私はもう一度病院へ行きました。真理さんはもう病室にいておばあちゃんといろいろ話をしていました。今回おばあちゃんは前より体がもうちょっと弱くなったようでした。真理さんはおばあちゃんの細かい所にまで手厚くかんごしていました。誰にでも真 理さんはいい娘さんのように見えました。
このごろおばあちゃんがねている時真理さんと姉はいろいろ話をします。
真理さんは五年前に離婚して、むすこさん二人を連れておばあちゃんといっしょにくらしています。真理さんは自分で店を経営して、非常に忙しいので家事や子供の世話を全部おばあちゃんにしてもらっていました。一年ほど前からおばあちゃんが「時々おなかが痛くて疲れやすい。」と言っていたのに、真理さんは忙しかったのでぜんぜん気にかけていなかったそうです。一週間ほど前におばあちゃんが「もうやく一カ月熱がつづいている。」と言ったのであわてて病院に連れて来たそうです。 いになり、店や子供のことなどは全部忘れて毎日おばあちゃんにやさしくしてあげようと決心したそうです。おばあちゃんに分からないように、気がつかないように、まわりに誰もいない時しか泣けませんでした。
姉と真理さんのことを話しているうちにおばあちゃんがねてしまいました。それで真理さんも私達といっしょに話を始めました。
「日本では子供が大きくなったらだいたい親といっしょにくらしません。親は子供に対して愛をいくらでもあげるけれども大きくなった子供は何分の一も返せません。母がすぐいなくなる。この時までその意味がはっきり分かっていなかったのです。わかった時はもうどうしようもないんです・・。」真理さんは話しながら涙を雨のように流しました。
この後、おばあちゃんはほかの病室へ移されました。姉も退院したので、それからおばあちゃんかどうなったか分からないけれども真理さんの後悔していた顔が時々思い出されます。
中国と日本、政治的、経済的、いろいろな面でちがうところがいっぱいありますが、人間の感情は同じです。中国でも、日本でも赤ちゃんから育ててくれた私達の両親に対してできることはなんでしょう。
病気になった親のそばにいても真理さんみたいに後悔しないために忙しい生活の中でも時々両親のことを思い出してください。
十数年前から、日本の進んだ技術が中国へ伝わると同時に面白い日本の漫画も伝わって来ました。その頃から中国のテレビでは日本の漫画映画をよく放映していました。たとえば《鉄腕アトム》や《一休さん》や《ドラえもん》などです。“アトム”は子供たちに夢と力をあたえました。“一休さん”は子供たちに智恵と善良を教え、“ドラえもん”は子供たちにユーモアと想像力を教えました。このような漫画作品は子供もおとなも好きです。特に《鉄腕アトム》は文化革命が終わってから初めて外国の漫画として中国に来ました。その時は私はまだ小学生でしたが、とても深い印象を持ちました。家族全員がこの番組の時間になるとすぐテレビの前にすわって見ました。価値観がぜんぜん違う国の漫画がなぜ中国であんなに人気があったのかとても不思議です。
けれども日本にきてから漫画は子供たちだけのものではないということが分かりました。日本は経済大国というだけでなく、漫画大国でもあるということが分かりました。電車や地下鉄にのるとすぐ漫画の本を手にして興味しんしんと見ている人がいます。そしてその多くはおとなです。本屋の棚には数えきれない漫画の本が並べてあります。漫画の種類はいろいろあります。外国の有名な作品によって作ったのもあるし、連続ものもあります。一番多いのは週刊漫画雑誌です。ある日本人の友達は自分が持っている漫画の本を私に紹介しました。中国の《三国志》や《水滸伝》もあります。友達の話では日本ではおおぜいの人々が漫画を読んでいるそうです。漫画家もおおぜいいます。日本のことを知りたい時は漫画の本からも知ることができます。なぜ日本で漫画はこんなに広く読まれているのでしょうか。とても不思議です。
漫画以外の小説や本などはどうでしょうか。漫画と同じぐらい人気がありますか。学生たちは漫画と小説とどっちが好きですか。小学生の時からいつも漫画を見ていれば言葉で書く能力はどうなるのでしょうか。なぜ週刊漫画雑誌が一週間にあんなに厚い本になって出版できるのですか。内容はどうですか。私はちょっと心配です。なぜ電車や地下鉄の中で漫画を読んでいるおとなの90パーセントは男の人なのでしょうか。なぜこの人たちが読んでいる漫画の本の90パーセントは週刊漫画雑誌なのでしょうか。とても不思議です。
なぜ漫画の中の人物の顔は日本人の顔に似ていないのでしょうか。なぜ西洋人のような顔をしているのですか。目はとても大きいですし、鼻はとても高いですし、足はとても長いです。《三国志》の諸葛孔明の顔が中国でよく知っている諸葛孔明とあまりにも違うのでおどろきました。なぜ諸葛孔明は日本で西洋人の顔に変わったのでしょうか。私はとても不思議です。漫画についていろいろな疑問が湧いてきます。日本の漫画は日本特有の文化現象だと私は思います。それで、漫画から日本のことをいろいろ知りたいと思います。まずは手塚治虫さんの《火の鳥》から始めようと思います。手塚さんは「漫画の神様」ですから。
私は日本へ来てもう半年になりました。この半年の間に日本のいろんな都市へ行きました。大阪の外に、束京、横浜、名古屋、京都、神戸、広島などへ行きました。その中で広島は私にとって一番印象深い都市です。広島で見たことはいつまでも忘れることができません。
広島市は世界で最初に原爆が投下された被爆地として、国際的に有名な都市です。私も子供の頃に聞いたことがありますが、その時はほとんど知りませんでした。中学生の時に世界史を勉強して初めて広島のことを知りました。しかし本や写真やテレビで広島のことを見ただけで、あまり理解できませんでした。でも私はいつかある日、実際に広島へ行って、いろんなことをこの目で見られたら、どんなにいいだろうと思っていました。
今年の一月四日、やっとその日が来ました。その日に私は大変衝撃を受けました。広島市に着くと、まず平和記念公園に行きました。平和公園は大変きれいなところでした。川の周りには、青い空の下で緑の草木や赤い花が一面にひろがっていました。緑の芝の上には平和を表す白い鳩がたくさんいました。鳩はクークーと声を出して人々の周りを飛んでいました。子供たちが鳩と一緒に飛び跳ねて遊んでいました。その公園で私が驚いたものは、木に結びつけてある折り鶴でした。数え切れない程たくさんの折り鶴があちらこちらにありました。それがどのような意味をもつのか私は姉に聞きました。姉は「その折り鶴は千羽鶴といって、平和の祈りの象徴よ。」と教えてくれました。そんなにたくさんの折り鶴を作るのは本当に大変だろうなあと思うのと同時に多くの人の平和への祈りが伝わってきました。このような平和で静かな公園の端に奇妙な建物がありました。古いほとんど壊れそうなその建物は原爆ドームでした。あまりにも平和な公園にあまりにもふさわしくないように思える、当時のままの原爆ドームを見て、原爆の恐ろしさを感じました。原爆ドームはどんな建物よりも平和への切実な祈りを訴えていました。
それから、私は広島平和記念資料館に入って、中国語の解説テープを借りて、それを聞きながら展示物を見ました。昭和20年8月6日午前8時15分、広島は世界で初めて原子爆弾による被害を受けました。市の中心地相生橋付近に原爆が投下され、歴史の地は一瞬にして地獄の地と化しました。広島の街はほとんど破壊され、そこに住んでいた多くの人たちの生命が奪われました。かろうじて生き残った人たちもその体と心に大きな傷を受け、いまなお苦しんでいます。その資料館に展示されている被爆者の遺品などの資料のひとつひとつには人々の悲しみや怒りが秘められているように感じました。原爆被災者の状況を示す人形、破壊された広島市街地の模型、人影が映った石の階段、ガラス片が突きささった壁、黒い雨、後遺症に苦しむ人々の絵や写真やビデオなどには被爆者の無残な姿が克明に描かれていました。目を覆いたくなる光景でしたが、しっかりと平和へのメッセージを心に刻んで人々に伝えていくべきだと思い、真剣に何度も見ました。それらの資料から、多くの人たちの犠牲があって初めて今日の平和が築かれていると考えることができました。私は感想を資料館にあるノートに書きました。私たちはみんなで世界の恒久平和と核兵器の廃絶を願おうと書きました。私たち若者は戦争を経験したことはないけれど、核の悲惨さ平和の尊さを理解することは必要だと思いました。
記念館を出て、帰るとき、おみやげの店で私は鳩の形の温度計を買いました。今その鳩は私の部屋の壁にかけてあります。私はこれを見るたびに広島のことを思い出して、もし将来世界中が平和で、子供たちがみんな戦争を知らずに、みんな仲良く楽しく暮らせたらどんなに幸福だろうと思います。私たち一緒にその日の来るのを祈りましょう。
最後に平和記念公園にあったある碑の中の詩を紹介したいと思います。 「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしにつながるにんげんをかえせ にんげんのにんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわをへいわをかえせ 峠三吉」 NO MORE HIROSHIMAS..........
私は去年の四月の末ごろ日本にきました。その時から今までだいたい一年たちました。その一年の間に私が日本で初めて見たものや感じたことやいろいろな面白い経験を書くことにしました。
日本へ来て一番強く感じたのは日本の高い物価のことです。飛行機が着陸したあとで空港でコーヒーを飲みました。コーヒーは普通二百円ですが私の国のお金にかえるとその金額でコーヒーが十杯も飲めるのです。だから日本の物価はけっこう高いと思います。そのあと一カ月ぐらい何でも買う前に自分の国のお金と比べて「高いな」と思い、買うのをやめたこともありましたが、今はもうなれたのでもうどうしょうもないと思って買ってしまうのです。
日本へ来て「これはいいな」と思ったこともあります。それは日本の交通のことです。地下鉄は本当に便利なものです。地下鉄に乗れば大阪市内のどこへでも行けるし、もっと遠い所へ行きたかったら新幹線があります。また車で行く人のために高速道路があります。その高速道路を使えば日本中のどこへでも行けることをすばらしいと思いました。それに大きな工場から身近なトイレまでコンピューターが使われていて、自動になっています。これは大変便利だと思います。私の国では全部自分でやらなければなりまぜん。自動販売機はまだまだありません。汽車のきっぷを買うのにも何時間も並ばなければならないのですが、日本では一分もかかりません。銀行や郵便局も同じです。
日本へきたばかりの時は道はあまり知らなかったのでまよったこともけっこうありました。けれども道で通りかかった人にたずねると、とても親切に道を教えてくれたり、案内してくれたりしました。日本人のこのような親切さに私は感動しました。
これは私が学校へ通い始めたころのことです。朝の満員電車の中で日本人の立ちながら寝ている姿を見てびっくりしました。その上降りる駅に着くとすぐ目を覚まして何もなかったように隆りていくのです。それを見た私がこれは日本人にしかできないことだと思っていましたが、このごろ自分も同じことをするようになったので、電車を毎日利用している人だれでもできるようなことだとわかりました。
日本語学校で勉強しているうちに初めてカラオケという言葉が耳に入りました。先生に聞いてみると、日本人の大好きな遊びだと言われたので私は興味を持ちました。それで同級生といっしょに行ってみました。面白いことに歌も自分で歌い、お金も自分で払いました。インド人の考え方では普通は歌手の歌を聞くためにお金を払います。自分で歌うためにわざわざお金を払うのはばかな話です。しかしお金を払ってもカラオケは「ほんまに楽しいもんやなぁ。」
いろいろな面白い経験もありましたが、六カ月前のことが忘れられません。私が学校から家へ帰る時芦屋の駅の前に面白い人に話しかけられました。その人が私の幸せを祈りたいと言ったので、本当に驚きました。けれども私も一度これはどういうことだろうと知りたかったのでその人に祈ってもらうことにしました。そして、かれの言う通りにいろいろなことをしました。みんなの前で手を合わせたり、目を閉じたりするのははずかしかったのですが、興味があったので最後まで言う通りにしました。それは珍しくて面白いことでした。
私の姉は今専門学校で勉強していますが、姉も学校で「あなた夢をどんな言葉でみますか。」とか「びっくりした時何語がでてきますか。」と言う質問をされて本当に驚いたと言いました。妹も同じように中学の友達から「あなたは寝る時めがねを外したら夢がきれいにみえますか。」と質問されました。それを聞いた私は考え込んでしまいました。もし、私がこんな質問をされたらどう答えたらいいでしょうか。日本には、こんな、夢にも思えないほどびっくりすることが、たくさんあります。
この間私はパイロットクラブというボランティアの招待で宝塚歌劇を見に行きました。それを見たあとで私は何とも言えない気持ちになりました。服装はすごくはなやかで、歌もうまかった。それにこんな短い時間で舞台をかえることができるとはすばらしかったのです。そのあと招待して下さった方と食事をしながらいろいろ話をしました。日本人が私達留学生とこのようないろいろな形で交流をしてくれるのはとてもうれしいことです。パイロットクラブの方々が私にこんないい機会をくれたことを本当に感謝しています。そのほかにもたくさんのボランティアグループが留学生のためにいろいろなことをやってくれるのですね。日本人のこういう気持ちはありがたいと思います。これからもいろいろな経験を通していろんな日本人と交流をしたいと思っています。
そろそろ五月も終わり、初夏の暑さを強く感じています。先日はお手紙ありがとうございました。日本語学校を卒業して、もう二か月経ちました。光陰矢の如し、昨日のことのように思います。現在、専門学校に入って、初めて日本の若者たちと一緒に援業を受けたり、昼ごはんを食べたりしています。日本語学校では、周りの人たちはほとんど中国人でしたので、日本の若い人たちと付き含うことが夢の一つでした。ようやくそういうチャンスがやってきました。
「今の若者はダメだ。」という評判を年輩の人たちから聞きます。若者に対して抱いているイメージは人によって違うと思います。私は毎日若者たちと触れ合い、自分の目で若者を見ることができます。だからこそ、私は先入観にとらわれずになるべく白紙の状態で、ありのままにこういう若者たちと付き合っていきたいと考えています。私が通っている専門学校は女子校です。ですから、先生たちは別として、学生はみんな高校を卒業したばかりの女の子です。
最初の一週間は授業も順調でした。第二週目の授業に入ると、ずいぶんうるさくなってきました。特に男の先生の授業です。例えば、先生が教室に入って来ると、
「先生、今日は格好いい。先生が大好き、やっぱり先生と結婚したいわ。」と一人の女の子が言ったのに続けて、別の女の子も、
「先生、晩ごはんは奥さん何を作りますか。私が作ってあげましょうか」と聞きました。
その先生は六十歳ぐらいです。平気な顔をして、にこにこしながら「そうですか」とこともなげに返事をしました。たぶんこういう場面は初めてではなく、先生はもうなれているのでしょう。
次の授業はマナーと接遇の授業です。教えている先生は年をとった女の先生です。ベルが鳴って十分後、”お嬢さま”たちはゆっくりガムをかみながら、教室に入りました。もちろん先生は”お嬢さま”たちより先に教室に入っているわけです。
「今日は、敬語の使い方を練習しましょう」と先生は言いました。
「いや。大嫌い。」と”お嬢さま”たちは小さな声で先生に反抗しました。
「いくらいやでも、就職のためには、敬語が使えなければなりません。さあ、始めましょう。」と先生は言いました。 びっくりするほど私の同級生は敬語が正しく使えません。例を挙げてみましょう。先生は「います」の尊敬語はなんですかと質問しました。次から次ヘ、八十パーセントの学生達は「おられます」と答えました。先生はあきれた表情で私に聞きました。
「いらっしやいます」と私は答えました。今度びっくりしたのは学生たちのほうです。
また、ほかの授業でも私は先生をびっくりさせました。
日本の戸籍謄本と戸籍抄本はどこが違いますかと先生に聞かれた時、みんな知りませんでした。けれども、私はその違いを説明することができました。生まれてからずっと日本に住んでいるのに、この学生たちは、どうしてわからないのでしょうと私はとても不思議に思いました。
昼休みの一時間、学生たちがサロンと呼んでいる所はタバコの煙で一杯になります。あざやかな口紅をつけて、タバコを吸いながらこうふんした口調で彼氏のことや同棲していることや婦人科に通っていることなど周りを気にせず、体全体で話しています。どういう気持ちかよくわかりません。お互いに競争している、という感じがします。ショーツが見えるほど短いミニスカートをはき、金髪に染めた髪の毛。後ろから見ると、全く日本人には見えません。
自分が高校を卒業する前のことを思い出しました。高校では、男子学生と女子学生が一緒に勉強をしていましたが、男の学生に話しかけることは恥しいことでした。必ず顔が真っ赤になってしまいます。時代によって違いますが、ごくわずか数年の差でこんなに大きく変化してしまうとは、私はどうしても信じられません。自由奔放な性格は決して悪いことではありませんが、何でもやりすぎることは決してよいことではないでしょう。
中国のことわざによると「子不孝、父之過」つまり父親が教育に失敗すると、子どもは立派なおとなにならないと言います。日本の家庭で家庭教育をきちんとしているのか全然していないのか私ははっきりわかりませんが、親は子供との間に友だちのような関係を作れば、相互の信頼感も強くなってくるかもしれません。
この問題はどこの国でも存在することで、避けることはできないことです。この学校の若者たちは絶対悪い人ではないと私は信じています。しかし、今の教育の方法を考え直してもいいと思います。誰でも若い時、みちに迷うものです。ヨーロッパのある有名な哲学者は若者に対し、このように話しました。「若者の罪は、神様もお許しになります。」社会へ出てまだ半年未満の若者たちもきっと自分の頭を使って、善悪が判断できる立派な人になると私は信じています。
文章が長くなってしまいましたが、次の手紙にはあなたの考えを書いて下さい。楽しみに待っています。ごきげんよう
私は昨年の十月に保証人の世話になって中国の大連から日本にきました。そして今まで保証人と一緒に住んでいます。保証人のご夫婦は私を自分の娘のようにたいせつにしてくださいます。家で私は保証人のご夫婦をお母さんとお父さんと呼んでいます。日本にきてから衣食住はお母さんの世話になっています。
お母さんは世界で一番やさしいお母さんだと思っています。私が六才の時、実の母は心臓病でなくなりました。保証人のお母さんの世話になるまで「母の愛」というものはぜんぜん味わったことがありませんでした。今ではお母さんにいろいろ親切にしてもらって、しみじみ深く母の愛を感じています。朝、「がんばってください。」、「いってらっしゃい。」とお母さんの優しい声を背に出かけると、一日中元気いっぱいでいられる感じがします。冬にはお母さんはいつも私が帰る前に私の部屋の暖房をつけておいてくださるとか、休みの日に懐かしい中華料埋を食べに連れて行ってくださるとかいった例は取り上げたら切りがないほどたくさんあります。中でも一番深く印象に残っているのは昨年十月の学校のバス旅行の時のことです。お母さんはお菓子やチョコレートなど買ってくれて友達にもわけてあげなさいと言われました。私はもう二十四才の大人なのにまるで子供にたいするような心遣いに本当に感動しました。
お母さんが優しいのに対して保証人のお父さんは厳しいです。勉強上何か分からないことかあれば丁寧に教えてくださいますが、私が何か行儀が悪かったり言葉遣いを間違ったりしたらすぐ叱られます。今年の春休みに入る前、学校からの成績報告書が届きました。半年の努力によって私の出席率は百パーセントで試験もよくできました。お父さんは喜んでくださいましたが同時に「それて慢心してはいけない」と注意されました。春休みが終わって新学期に成績によって改めてクラス分けがあり、私は学校で一番上のクラスに分けられました。初めての授業で私はみんなの自己紹介を聞いて驚きました。みなさんは通訳の仕事をやってきた人もいれば、大学の日本語科を卒業した人もいます。私は日本語の勉強がまだ一年足らずで、もしみんなの授業についてゆけなかったらどうしようとかなり悩みました。それで何回も下のクラスに入れてほしいと先生に頼みました。しかしその度に先生から「心配しないで何も考えず頑張りなさい」と励まされました。私は実はそんなことを言われる先生に不満な気持ちを持っていました。家に帰ってその不満をお父さんに話すと慰められるどころか却って叱られてしまいました。「先生は長年日本語を数えていらっしゃいますからどんな学生はどんなクラスで勉強すればいいかよくご存知のはずです。やってみないとできるかできないか分からないでしょう。やらないうちからできないと思う人間はだめな人間です」と叱られて私は返す言葉もありませんでした。時間がたつにつれてやはり先生とお父さんがおっしやった通りで今はこの上のクラスヘ入ってよかったとつくづく思っています。このクラスの友達は日本語が上手なだけでなく、様々な知識も持っているから大いに勉強させられます。
日本のいろいろなことをより一層私に知らせるためにお父さんとお母さんはいろいろな観光地に連れて行ってくださる度に様々な歴史なども教えてくださいます。五重塔の由来とか東大寺は世界最大の木造建築だとかユネスコで世界の文化遣産と認められている法隆寺と姫路城とか、数え上げたら切りがありません。いつか機会があれば日本で最も美しい山だと言われている富士山を見に行きたいという夢を、私は高校時代、中国の雑誌に載っていた富士山を見てからずっと持っていたのです。今年のゴールデンウイークにお父さんとお母さんは私の長年の夢を実現させてくださいました。絵のような富士山を眺めながら私はその自然の美しさに感動すると同時にお父さんとお母さんに対して更に感謝の気持ちでいっぱいになりました。
お世話になっている保証人さんへの感謝は本当に言葉で表すことは難しいです。「よく勉強して身につけた知識を生かして人類の将来のために国際交流のために貢献してください」とお父さんに教育されています。私はお父さんとお母さんの話をよく聞いて、期待されているように日本の法律を守って一生けんめいに勉強したら、それが何よりもお二人を喜ばせることになると思い、日々勉強に励んでいます。
「日本」。それは私にとって幼いころから近いけれども未知の国であった。韓国よりも経済面においても産業面においても、あらゆる面において進歩し、発達している日本で、建築デザインを勉強したいと思い来日したのが一年前のことである。来日したてのころは日本語での簡単な会話すらできなかったし、生活にも適応できなくて苦しんだ。何度も涙をこらえ、一年間はただひたすら大学合格という日標に向かってがんばってきた。そのかいあって無事、志望の大学に入学することができ、またある程度の日本語の学力もついてきた。日本の生活にも徐々になれ、一人、二人と親しく話せる日本の友人もできてきた。
この一年間で得たものは日本語や友人だけではない。初めて自国から飛び出し、外から韓国という国を客観的に見ることができたこと、これは貴重な体験である。そしてそれと同時に、人づてに聞いたことしかなかった日本の長所や短所も少しずつ見えてきた。
日本は、第二次世界大戦の敗戦で廃虚となってしまった国を、一人一人の国民が総力をあげ、世界第一の経済大国といわれるまで成長をさせたのである。私が国にいるころよく聞いたことは「韓国は日本に比べてちょうど十年遅れている。」ということである。その言葉通り、私が実際に日本で生活しながら感じたことは日本の発達した交通綱や国民の生活水準の高さである。韓国は一九八八年にソウルオリンピックを開催した。韓国の国民はそれは世界にほこるべき大成功であると喜んでいる。ところが、日本人の口からでてくる言葉は「成功」とはいいがたい批評である。またかなりの速度でのびて来た韓国経済もソウルオリンピックを境にその速度が劣えたのではないかと言われた。大成功であったとばかり思い込んでいた私ははずかしい思いであった。ところで、韓国よりも経済面、産業面で進んでいる日本がこれから考えていかなければならないことが一つあるように思う。それは若者の考え方である。これからの日本を背負って行くのは若者たちである。このすばらしく成長した日本をつくりあげたのは現在の四十代五十代、またはそれ以上の人たちである。その人たちの汗と涙の結晶の上にあぐらをかいて、まるで自分たちが作った国のように生活している現在の日本の若者、本当にこれでいいのだろうか。老人を敬い、大切にすることもなく、礼儀正しくもなく、常に自己中心的な若者が増えてしまっているのだ。地下鉄やバスを利用していて気付くのは、立っている老人に席を譲る若者が全くといってないということだ。気が付かないのか、気が付かないふりをしているのかわからないが、本当に残念なことだ。
また、白昼堂々と町中で抱き合ったりキスをしたりする若いカップルをみかけることも多い。日本という国はどこかで道をまちがえてしまったのではないだろうか。一方、韓国の若者はというと、みんながみんな礼儀正しく、老人を敬っているわけではないにしても日本の若者よりははるかにましだと思う。春休みに一年ぶりに帰国した際に地下鉄にのってみたら老人に席を譲る若者を数多く見ることができたし、そんな光景を見るとやはり韓国はまだまだ捨てたものではないと感じた。
また、最近の日本の若者はかなりの欧米志向である。アメリカをはじめとするいわゆる西洋文化に憧れ、真似をするのである。他国の文化を吸収することは決して悪いこととは思わない。しかし、日本にはすばらしい独自の伝統や文化、歴史があるのだ。その古きよき文化を知ろうとせず、西洋にばかり目を向ける若者たち。若者たちは母国の文化を継承し、守り続けていく義務と責任があるのではないか。日本がこれからもっと世界をリードしていくためには原点に立ち返り、まず自国のことをよく知り、愛することから始めなくてはならないのだろう。自国を愛さない人間が他の国に憧れる資格はない。日本の若者よ、これからの日本のために一人一人が努力して行こうではないか。日本に留学に来た一人の若者の意見である。