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日本語作文  第3回 コンクール 1996年
1996年入賞作品

初級 入賞 「日本に来たのは夢のようです」  陳 美玲(台湾)
入賞

「ゴールデンウィークの旅 」  韓 愛玲(中国)

入賞

「私の父」  閻 妍(中国)

  入賞

「南京―私の愛している町」  唐 君(中国)

  入賞

「永遠の微笑 」  胡 文竹(中国)

  入賞

「”初めてのお遣い”を見て」  王 ○(中国

  入賞

「日本語の勉強」  游 慧華(台湾)

  入賞

「母語 」  陳 怡初(台湾)

  入賞 「本当の豊かさとは」  岩村ウイリアン雅浩(ブラジル)
上級

審査員特別賞(上級)

「HERE IN OSAKA」  李 温九(韓国)

「日本に来たのは夢のようです」  陳 美玲(台湾)

 大学を卒業した後、一般の人々と同じように私もある会社に就職しました。仕事には不満があったわけではなく、同僚ともうまくいっていたのですが、これといった目標もなく仕事上で意義も見いだせなくて、ほんとうにこれでいいのだろうかという疑問が常に私の前にありました。

 そんなある日、外交官として日本勤務をしている兄から、日本に来て勉強しないかという誘いがありました。その話を聞いた時、私はびっくりすると共に未来が開けたように感じました。なぜならば、日本留学のことは大学時代からずっと私の希望でしたが、幾人かの親友と離れるのがつらく、また経済的にも不可能だったので、あきらめるしかありませんでした。けれども半年後、意外な兄の招待をうけた時、感謝と同時にたいへんとまどいました。私の日本留学の希望はすでに私のこころのおくにうずもれてしまっていたからです。しかし、兄からの招待と援助の言葉をいただきましたが、私はしんじられなかった。

 そのようにして、日本留学が決まってから、台湾でのいそがしい毎日が始まりました。私はある日本語センターで日本語の基礎を学んだり、親戚と別れを惜しんだりしました。日が近づくにつれ、かれらと別れるのがますます辛く感じられ、日本留学の決心がゆらぎました。

 そして出発の日、両親と親友となみだながらに別れを告げて、飛行機に乗りました。よく遊んだ淡水河や仲間といっしょによくのぼった観音山、特に四年間通った私の大学が外から見えた時、非常に感動しました。台湾を離れて外国へ行くのも飛行機にのるのもこれからが初めての経験で、台湾から日本までの二時間余り、いろんな思いがこころをかけめぐりました・・・。まどの外に、突然まちのあかりが見えた時、思わずとなりの人に、「ここは日本ですか。」と聞きました。「これが大阪湾です。」と言われ、とても感動して、しんじられないで、「日本へ来たのは夢のようです。」と言いました。


 夢のように来た日本で、私の夢を実現するためにいっしょうけんめいがんばろうとおもっています。

 


「ゴールデンウィークの旅 」  韓 愛玲(中国)

 留学生として、日本についてからは、見るもの、聞くもの私には新しいことばかりで、それからは、ひとつの新しい生活が始まりました。留学生の生活は、苦労と苦悩でいっぱいですが、しかし毅然とした一種の堅い信念を抱いて来ました。ここでは、私は、大変多くの知識を勉強することができ、大変多くの経験をしました。私はすでに、すこしずつここの生活に適応して、また少しずつ日本の風俗、人情を理解しています。『ゴ−ルデンウィ−ク』は日本の春の特別な休みで人々は旅行に出かけ春を楽しみます。

  私は日本に来てちょうど良い時に日本人と一緒に有意義なゴ−ルデンウィ−クを過ごしました。また私は日本人が旅行を愛する心情を自分自身で体験しました。

 春の美しいゴ−ルデンウィ−ク時、私は保証人の家族といっしょに有名な古い文化の町−倉敷に愉快な旅行をしました。道中では人々が行ったり来たり、にぎやかな情景を見ました。私はこの情景に感動しました。私たちが目的地についた時、そこはもう大変多く人がいました。ある人は家族全員で来ているし、ある人は同級生、友達と来ていました。人々は小さいグループで観光地区を歩いていました。

  観光地区について、まず私の目に映ったのは、にぎやかな街と古い日本式の家屋です。沿道にはたくさんのみせがあり、ずっとお客さんを呼んでいました、観光客も争っていろいろみやげをたくさん買っていました。倉敷の川には、魚や白鳥が楽しそうにあそんでいました。青柳が古い石橋のそばに、低く垂れています。子供たちが川のそばであそんでいました。人々が春の陽気の中で楽しく、話したりわらったりする声が聞こえました、またそれぞれが、記念の写真を撮っていました。このような情景を見て、私は自分の故郷−青島を思い出しました。この季節には2,3日の休みがあります。青島では5月のはじめはちょうど桜の花が満開の季節で、人々は約束がなくても、自然に有名な中山公園へ集まり桜の花見をします。公園の中には長い桜の花の通路があります。人々は満開の桜の花の下に集まり、家庭、友達、同級生などなどはそれぞれいっしょに写真を撮っています。ここでは花見以外に、一年に一度の動物のショーはたいへん多くのまだ見たことのない遠方からの人々も集まってきます。大変多くの人々が桜の花の樹の下に集まり、すわり大自然の景色を見るだけでなく、歌を歌ったり踊りをしたり、おべんとうを食べたりしてとても楽しく過ごします。これらの情景は印象深く私の頭の中にあります。

 倉敷の川辺を歩いていると、古い町が、古い伝統的な家屋が、依然完全な無傷で保存され、私はおどろきました。それは長い歴史があり私はまだ完全に理解できませんが、そこで記念写真を撮りました。

 私たちが陶磁器館まで来た時たいへん多い人々が陶磁器を自ら作っているところを見ました。私は珍しかったので近づいて見ました。かれらはたいへんうまく陶磁器の表面に人の絵、花草の絵などをかいていました。私も自分が制作しているように感じました。これも『ゴールデンウィーク』を過ごした、美しい記念と言えると思います。

 私たちはそのほかに有名な大原美術館を参観しました。この美術館は1930年に建てられ、この中には17世紀から19世紀の非常に著名な西洋画が収蔵されていました。また20世紀の現代美術作品も展示されていました。それぞれが悠久な歴史をもった作品で人に一種の永遠の感動を与えてくれるものです。

  夕暮れが近づくと、人々はそれぞれゆっくりと帰りはじめ、歩いているのを見ると疲れたように見えますが、依然として満面に笑みをうかべていました。私も帰る時には人混みの中で、この古くて小さい街を振り返り見ると、そこは特別に美しい美観の景色ではないが、その優雅なことは私に深い印象を与えてくれましたので本当に離れたくない気分がありました。私は保証人さんの一家がこん回の旅行を計画してくれたことに非常に感謝します。とともに私にとって、また一つ新しい理解があり、また私にとって一つの愉快な『ゴールデンウィーク』の旅行でした。

「私の父」  閻 妍(中国)
 幼年時代、母の体がずっと弱かったので、普段はよく父が私を郊外へ連れていってくれました。その時、父は私に自然を楽しむだけではなく、よく自然を理解してほしかったのでしょう。父は私に教科書にはないいろいろなことを教えてくれました。でも、その時私はずっと母は父より偉大だと思っていました。なぜなら、母は身体が弱いのに家族に深い愛情をもっていてくれたからです。だから、私はこんなに良い母をもっていたことを誇りに思います。私にとって母は一番大事な人です。母のいろいろな記念日には私の手作りのプレセントをあげます。小さいころの私の母に対する尊敬の気持ちは言葉や文字では表せないものです。しかし私は大きくなるにつれて、母は偉大だけれど父はもっと偉大だということがわかってきました。

  私が13歳のとき、母は突然中国で30年に二人しかかかったことがない珍しい病気にかかりました。その時医者は父に、「この病気の死亡率は95%です。それに危険な状態の時は家族の方は寝ずに付き添って、特別な食べ物を作ってあげてください。」と言いました。その時、私は13歳でしたが、自分で髪を洗うこともできないほど甘やかされていました。父は母の世話だけでなく私の世話もしなければなりません。その時、私はとても恐ろしかったです。私は泣きながら父にどうすればいいか聞きました。私は父に、「絶対にお母さんをんを死なせないで。」と言いました。父は私の涙を拭きながら私に言いました。  

 「心配しなくてもいい、お父さんが絶対にお母さんを死なせない。もし万が一のことがあってもお父さんがお母さんのかわりにお前の面倒を見てあげるから。お前は何も心配しないでしっかり勉強をすればいい。」  

 私は父の話を聞いてうれしかったです。なぜなら、私が小さい時から父は一度もうそをついたことがなかったからです。その日からも私の生活状態は今までと同じでした。でも父の生活状態はすっかり変わってしまいました。父は毎日仕事だけではなくて、私と母の食事を作らなければなりません。毎日夜になると私がちゃんと寝たのをみてから、母のいる病院へいきます。ある日、父は病院へ行く途中足に大怪我をしました。それで、父は毎日不自由な足で会社へ行ったり病院へ行ったり私の世話をしたりしていました。そして、ちょうど一年経って母の病気は奇跡的に危険な状態を過ぎました。病院の先生も驚きました。この一年間父の苦労はとても大きいものでした。一年の間に父の髪もだいぶん白くなって、顔もだいぶん老けました。この一年間で私は父の家族に対する愛情と私たちにとって父がとても大切な人だということがよくわかりました。母の病気は危険な状態を過ぎたけど治ってはいません。これからも父は母の世話をしなければなりません。私は父が肉体的、精神的な苦労の他に金銭的にも苦労していることがわかりました。それでも父は私を大学に行かせたいと思っています。それは父の私に対するたったひとつの希望です。でも私は早く仕事をして父を助けたいので、私は中学を卒業してから専門学校へ行くことに決めました。父はそのことを知っても反対はしませんでしたが、失望し私を可哀想だと言う表情をしました。母が病気になってからなくなるまでの七年間はずっと母の面倒をみてきました。母は重い病気でしたが、毎日がとても幸せそうでした。母が逝く前に私にこう言いました。「閻妍、これからはお父さんの面倒をみてあげなさい。あなたのお父さんはとても苦労しました。もしお母さんが死んでもあまり悲しまないで、あなたにはあんなにいいお父さんがいるから。」

  母が逝ってから父は疲労と悲しみで重い心臓病になりました。私はずっと父のそばに居てあげたかったのです。でも父は、「親は子どもとずっと一緒にいることはできないからお前はこれからちゃんと学校に行きなさい。そして大学に入るために頑張りなさい。」と私に言いました。私は父に幸せな老後を送って欲しいし、私が大学へ行くと言う父の願いにもこたえてあげたいです。だから私は日本へ来る時に自分自身に、「絶対に頑張って大学へ入れるようにする。」と言いました。

 この作文は、私が初めて日本語で書いたものです。この作文を通して私は父にあなたの様な父がいることを誇りに思っていることを伝えたいです。お父さん安心してください。私はお父さんを失望させません。

「南京―私の愛している町」  唐 君(中国)
 私は中国の四川省で生まれ育った。大学を卒業した時、偶然でもあったが、南京で就職することに決めた。これは中国では、一生、南京で過ごすことを意味する。  

 南京という町については、古い都であること、歴史上悲惨な大虐殺の事件、六十年代に中国独自で建設した長江大橋等ぐらいしか知らなかった。「あんな所で日本語の通訳をするのは大変だよ。」と言った友達もいた。でも、それだからこそやり甲斐があると思い、自信満々で南京にやってきた。  

 南京に着いた時は夏の午後八時頃であった。その町は黄昏の光に包まれ、街路樹の濃い葉っぱに覆われた明かりがぼんやりと町を照らしていた。人々が木の下やロータリーのまん中の芝生にござを敷いて、扇子で扇ぎながら話しあっていた。南京は中国の三大炉の一つといわれ、夏はとても暑い。近頃、クーラーを使う家庭も増えてきたが、まだ数多くの人には昔ながらに、夏の暑い時、家の外で涼む習慣がある。それは普段忙しくて、隣人や友達と話すチャンスが少ないから、この時にお互いに親しくなろうとするのかもしれない。  

 冬になると、南京はとても寒くて、雪もよく降る。つい最近、四川の料理「火鍋(ホウクォー)」(日本のしゃぶしゃぶと似た料理で、とても辛い)が南京にも伝わってきた。南京の料理は上海風で、ちょっと甘味があり、お酢に紹興酒に砂糖を使う特徴がある。火鍋はとても辛くて南京の人にはとても食べられないと思ったが、実はとても人気がある。特に冬、火鍋屋さんは忙しい。私は南京に行く時、多分南京料理には慣れないだろうと思い、唐辛子を持っていったが、そのうち、何となく南京の料理が好きになった。今、日本に来て、日本の友達に美味しい料理を作って、食べさせてもらってから、四川料理でも南京料理でも日本料理でも皆それぞれの味があり、慣れれば、どの料理でも美味しく食べられると思うようになった。  

 景色と言えば、南京には山もあれば湖もある。名所旧跡もあれば美しい自然もある。冬の一景で私には忘れ難いものがある。それは武湖の鴨である。冬は寒いので、私はめったに外出しない。ある日、友達が来たので、どこかを案内しようと思って、玄武湖へ連れて行った。玄武湖は東の紫金山の麓にある大きな湖で、南京の町の四分の一を占める。初冬の朝、湖畔の自転車道では朝の運動をする人々の姿が見かけられるが、木の葉が殆ど落ちてしまっているから、玄武湖はいっそう広く静かになっていた。ふと湖のまん中に目をやると、沢山の物が浮かんでいた。それは動いていた。試しに小石を投げてみたら、浮かんでいた物は飛び立った。鴨であった。「鴨さん、御免ね。驚かせるつもりじゃなかった。都会でおまえたちの姿を見たのは初めてだから」と思いながら空を仰いだ。ぬけるような空、穏やかな日差し、裸の梢の上を飛んでいく鴨たち・・・・・・  

 秋になると、日本では「紅葉狩り」があるが、南京でも似た習慣がある。休日になると、人々はピクニックに東郊外の紫金山へ自転車で行ったり、バスで、もっと遠い栖霞山へ行ったりして、赤や黄色の葉っぱの下で写真をとったり、山のあちこちにある湖の畔で楽しく過ごす光景がよく見られる。山を登ったり、お寺に参ったりする人もいる。  

 春になると、花見がある。但し、南京の花見は桜ではなく、梅の花である。紫金山の中に梅の山があって、「萬株の梅」と称されるほどその丘の至る所に梅の木が植えてある。早春の頃、芽生えたばかりの浅い緑に彩られた山々に囲まれて、南京の市花―梅の花が咲きはじめる。色々な地方から人々が花を見にきて、まるで見事な祭りである。梅の花は寒さに耐え、凛々しい姿と気品のある芳香で、古くから中国の人に愛されている。私は梅の花から、南京という町が見えると思う。  

 南京は中国の豊かな江南地方にあるうえ、南北の交通要所でもあるから、江南の水郷の繊細なところと北方の雄大な感じを併せ持つ。そのような所で育った人達、特に男の人も南方の人の優しさと北方の人の男らしさを併せ持つ。東の紫金山の山脈を虎、町の北を流れる揚子江を龍とたとえ、南京は古くからしばしば都として栄え、各時代の雰囲気が今でも所々に感じられる。しかし、南京は都としての歴史がいつの時代にも本当に短くて、悲劇もあまりにも多かった。近代になって、アヘン戦争の「南京条約」をはじめ、南京には中国人の苦しい思いが沢山残っている。それでも、南京は寒い冬を耐えてきて、その美しい姿を人々に示している。  

 梅の花と同じように、私が愛している南京、あの町の美しさを保つ為に、私は何とか力になりたいと思う。

「永遠の微笑 」  胡 文竹(中国)
 八重桜が満開の時、私は夢が実現して、大喜びで日本に来た。去年も十日間の短い間日本にいたが、今回は自費留学で、生活も勉強も自分一人でやらなければならないのだ。飛行機が関西空港に着陸した瞬間、胸がどきどきし始めた。一体、この新しくきれいな国土はどんな態度で私を迎えてくれるだろうか。  

 いうまでもなく、親戚もない、知人もない外国に一人で留学することは苦しい。特に、初めのころは、何も知らないし、慣れないことばかりで、もっと難しい。私も予想どおりというより意外にいろんなことで困った。でも、その時、見知らぬ日本人や友達が助けてくれて、本当にありがたかった。特に、一人の日本人の女性の厚意は涙が出るほどうれしかった。名前も何も知らぬ彼女に助けてもらったことはいつまでも忘れられない。  

 それは日本に来た翌日のことだった。クラスメートはみんな別々の寮に住んでいたから、私は一人で帰らなければならなかった。電車の駅や、道などについて、学校の先生は前もって教えてくれたが、やはり何回も間違った。駅員などに聞きながら、やっと私の住んでいる吹田市についた。ここまでくるのがもう精一杯だった。「やっとつきました。」と思ったが、実はその後もっと困ってしまった。  

 駅は四つの出口があり、どこから出ればいいか全然見当がつかなかった。「一応ここから出ましょう。きっと見つけられます。」と思って、一番手前にある出口を出た。先日保証人さんが車で送ってくれたが、歩く時と感じが全然違った。私は覚えているとおりに歩くつもりだったが、実際は反対の方向に行ってしまった。知らず知らずのうちに駅からだんだん遠く離れてきた。そして、その時雨も降ってきた。傘も持っていなかったので、不安になった。人通りが少なくて、みんな急いで家に帰る様子だった。道を聞きたかったが、なかなかその勇気もでなかった。日本に来なければよかったとさえ思った。  

 空がだんだん暗くなってきて、雨もさらにひどくなった。しかたなく、ある大きい建物の一階の駐車場に立ちどまった。本当に泣きたかった。ちょうどその時、一人の女の人が小犬を抱いて歩いてきた。いくら恥ずかしくても、聞かなければならないと思って彼女に聞いた。  

 「すみませんが、留学生会館はどこですか。」  

 「ええと、留学生会館ですか。」と彼女は考えながら、やさしく答えてくれた。  

 「むこうのあたりのようですが、先この橋を登って、それから右のほうに降りて、信号のところで左に曲がって・・・」  

 「はい、はい、」と言いながら、実は頭に何も入らなかった。建物も似ているし、信号もたくさんあって、やはり分からなかった。ただ礼儀としてうなずくだけだった。  

 彼女は、私の様子を見て、多分事情が分かったのだろう。  

 「そうですね。ちょっとめちゃくちゃね。あっ、傘も持ってないの。じゃ、私が車で送ってあげましょう。実はいま買い物なんです。大丈夫よ。」  

 「あっ、そうですか。本当にどうもありがとう。」私はほっとして気持ちが落ちついた。  

 あまり大きくない車だったが、私に家のようなあたたかさを与えてくれた。やっとついた。  

 「わざわざ送っていただいて、本当にどうもありがとうございました。」  

 「いいえ、どういたしまして。気をつけてね。さようなら。」と彼女はきれいな微笑をして言った。  

 これは他人の目から見るとありふれたことかもしれないが、しかし、私は彼女のきれいな微笑を永遠に頭の中に刻んだ。関係のない外国留学生にあたたかい手を差しのべて、雨の中の暗さも一瞬に明るくなってきたようだった。本当に桜の真実の美しさを感じた。  

 日本に来る前に国で友達によく「東京砂漠」という言葉を聞いた。つまり物質の豊かさと反対に精神的には貧しくなるということだ。人間関係も一方で淡泊になり、一方で利益のため複雑になった。砂漠のように情熱もない生気もない人間関係になった。もし、みんなが彼女のように親切と微笑を他人に与えればと私は思った。  

 人間はもともと高級群居動物だ。どうして生活、仕事の集まりと反対に心が離れていくのか。もしみんなが彼女のように他人に対する思いやりがあれば、世界はきっともっと明るくなると思う。人々はお互いに助け合うし、自分の利益がたとえ一時的に損なわれてもがまんし、厚意を受けるより先ず厚意を示すだろう。  

 私はまだ留学生活が始まったばかりだが、この国境なしの美しい微笑に出会った。本当にいいきっかけができた。レオナルド・ダ・ビンチの名作「モナリザ」の永遠の微笑は世界中に知られているが、心の微笑はもっと美しい。世界中に平和と愛が満ち、人々が楽しく生きていくことを望む。


「”初めてのお遣い”を見て」  王 ○(中国
 モンゴルの大草原で日中両国の子供たちのおもしろい試合があったそうです。その内容は一人で遠距離を歩き、一番先に着ける人が勝つというものです。結果は日本の子供たちはつらくてもみんな歩き抜きましたが、中国の子供たちはだれ一人として終点まで歩けませんでした。最初聞いたとき、わたしはそのような結果になった理由がどうしても分かりませんでした。けれども、この間「初めてのお遣い」というテレビ番組を見て。その理由が少し分かったような気がします。その番組に登場する人物は寛平ちゃん、5才、男の子です。  

 ある日、寛平ちゃんはお母さんから入浴剤を頼まれて、午後三時ごろ買いに行きました。家はスーパーからかなり離れた小さな山腹にあるので、寛平ちゃんは自転車に乗ってでかけました。やっとスーパーに着きましたが、頼まれた入浴剤は見つかりませんでした。しかたがないので、何も買わずに戻りました。しかし、お母さんは許してくれませんでした。「電話でスーパーのおばちゃんに聞いたら、あるって。今度よく探してきて。」と厳しくお母さんが言いました。もう夕方に近かったので、寛平ちゃんは行きたくなかったのですが、お母さんのために、意を決して、再び自転車に乗って、出発しました。今度はよく探して、やっと見つけました。スーパーを出ると、もう少し暗くなっていました。家まで十分ほどの山道を登らなくてはいけません。たいへんな坂なので、自転車の前にひもを括って、それを引いて登りました。砂利道ですから、二、三メートル進むたびに、自転車は倒れました。何回も何回も倒れました。いつのまにかあたりはすっかり暗くなっていました。しかし、寛平ちゃんは泣きたい気持ちを我慢して、電気がついた明るい自分の家を目ざして、登って行きました。  

 この番組を見て、わたしはほんとに感心しました。そして、あの大草原での試合であのような結果になった理由も分かったような気がしました。小さいころから、子供たちの自立能力を育成することが大事なことは世界中の親たちはほとんど知っていると思います。しかし、中国の親たちはわが子が世界中でいちばん可愛い子と思い、大事にしすぎて、つい子供の自立能力の養成を忘れてしまっているのではないでしょうか。  

 中国は人口の増加スピードを抑えるために、二十年前から一人っ子制度を始めました。今高校までの子供たちはほとんど一人っ子です。生まれてから、お母さん、お父さん、おばあさんやおじいさんなど、まわりは大人ばかりに囲まれて、大事に大事に育ててもらいました。結局、たくさんの「小皇帝」たちが誕生しました。彼らは何もしないで、何でもかんでも親にしてもらいます。親の手伝いをしたこともないし、お遣いに行ったこともありません。それどころか、小学校の掃除当番をするとき、おばあさんにしてもらう子供さえもいるそうです。それに、兄弟がいないので、お互いに助けあったり、ゆずりあったりすることも知りません。小さいころからずっと自己中心で育てられてきたので、集団意識に欠け、ほかの人と共同で仕事をすることは苦手です。子供たちは国、そして世界の未来です。こんなたくさんいる「小皇帝」たちに中国の未来が担えるのでしょうか。わたしは懸念の気持ちでいっぱいです。  

 中国は世界一の人口大国です。十二億人のうち、やく九億人はいなかに住んでおり、やく三億人は都会に住んでいます。都会の子供はいなかの子供より高い教育を受けていますが、ほとんどは「小皇帝」です。いなかの子供は中学校、あるいは小学校までの教育しか受けていません。非常に貧しいところには全然教育を受けられない子供さえいます。つまり、高い教育を受けているが、自立できない都会の子供と教育レベルの低いいなかのおおぜいの子供。これがわが国の将来とはほんとうに厳しい現実だと思います。  

 中国の将来を救うためには国民全体の学力を上げる制度をもう一度考えなおさなければなりません。それから、子供の自立心をやしなう人格教育にも力を尽くさなければいけないと思います。  

 二十一世紀はアジア、そして中国の世紀だと言われます。従って、来世紀の人材を育てる重任は中国の親たちが担っています。そのためには、日本も含め、世界各国の親たちの育て方の優れたところを取り入れる必要があるのではないかと思います。

「日本語の勉強」  游 慧華(台湾)
 私が初めて日本語を勉強したのは専門学校一年生の時だった。その時色々なサークルの紹介の場所の前で迷っていた新入生の私はある親切な先輩の紹介で「語文学社」というサークルに参加した。  

 「語文学社」はその名の示すとおり語学の勉強を目的としていて、二組に分けられている。一つは英語組で、もう一つは日本語組だ。英語は中学校からずっと勉強していたので日本語組を選んだ。授業は「あ、い、う、え、お」から少しずつ単語を覚えていった。たまには日本語の歌をうたいながら勉強した。サークルの活動時間は毎週の水曜日の午後だった。時間がとても短かったので沢山勉強することができなかった。それに、学校の勉強もだんだん忙しくなってきたので中途半端になってしまった。それから、四年生になって将来の進路を考えなければならない時に、日本語を勉強する気が再び燃え上がった。大学の編入試験を受けて日本語学部に入ろうと決心した。一生懸命勉強して、やっと、大学に入った。

 日本語学部は日本語の授業のほかに日本に関して色々な授業がある。例えば、日本の歴史や地理などである。その時学校の先生を通じてペンフレンドができた。文通を通じて日本語の練習もやっていた。また、ホームステイと日本人の観光ガイドの活動にも積極的に参加した。初めて日本語で日本の友達と話した時は少し緊張したが、相手が自分の言い出したことに返事をしてくれた時、とても嬉しかった。こうして、日本語を習えば習うほど面白くなってきた感じがする。  

 日本語の勉強には、難しいところがいくつかある。例えば、敬語の使い方、擬音(声)語、擬態語、外来語などである。これらを上手に活かすのは覚えるしか仕方がないと思う。漢字はもともと中国で造られた文字なので、台湾人の私にとっては、簡単に覚えられるはずだ。けれども、時々思わず中国語を書いてしまう。ふりかえってみると、日本語を勉強してから数年もたった。だが、日本人らしい話し方はやはり身につけることができない。ときには、挫折を感じる。私にとって語学を勉強することは一生のことだと思う。自分の母国語ではないので、一旦中止したら忘れやすいものだ。従って、就職する時に出来るだけ日本 語に関係のある仕事を探そうと思う。  

 私が大学を卒業してからの初めての仕事はアパレル関係の仕事だった。会社は全て日本向けの洋服を日本に輸出する。取引先は皆日本の会社だ。私の仕事は日本からのファックスと電話の応対及び出荷書類などの作成だ。お客様が台北に商談に来られる時は通訳係になった。従って日本語を使う機会が多かった。しかし、一年余り仕事をして、自分が困難にぶつかってしまった。日本のお客様が何を言っているのか私は大抵分るが、自分の言いたいことはどうしてもうまく表せない。これはきっと日本語を話す機会が少なかったのだろうと思っていた。以上のように私に欠けている部分を補うために日本に来た。  

 見知らぬ国での生活、学習は難しく、習慣の違いに馴れるまでは少し時間がかかる。外国生活をするとその国の長所、短所がわかると同時に、自分の国の長所、短所にも気づき良い勉強になると思う。また、学業だけでなく日本の文化、社会一般について見聞を広めたいと思う。わたしはこれから、日本の生活に早く慣れ、たくさんの日本の文化や伝統を勉強し、すばらしい国際人になれたらいいと思う。

「母語 」  陳 怡初(台湾)

まず、台湾の族群について紹介しましょう。今台湾には約二千百万人がいます。台湾人は大体四つの族群に分けることができます。次の図で表します。
 原住民は日本統治時代に「高砂族」と呼ばれました。原住民といわれている人達は九つの部落に分かれています。賽夏族や泰雅族などがあります。この九つの部落はそれぞれ言葉や文化が違います。でもこの九つの部落の言葉は原住民語と言われています。原住民の人口は約四十万人です。  

 本省人は約三百年前に広東や福建などから移住して来た人達です。大部分の客家人は広東からで、○南人は福建から来ました。客家人はは客家語を使います。H南人はH南語を使います。客家人とH南人は言葉や文化が違います。例えば、日本語で「ありがとうございます」、客家語で「アン・ツ・セ」、○南語で「ドシャー」、言葉の発音は全然違います。○南人の人口は約千百万人で客家人の人口は約五百六十万人です。  

 外省人は第二次大戦後(西暦千九百四十五年から千九百四十九年まで)中国から渡って来た人達です。外省人が使う言葉は大部分が北京語です。外省人は自分の言葉や文化があります。人口約四百万人です。  

 以上の四つの族群はそれぞれ言葉や文化が違います。でも全部「台湾人」と言われています。今は新しい「台湾人」の意味は台湾という土地を愛し、ここを故里だと思う人は台湾人です。  

 次に台湾で使われている母語について紹介しましょう。母語の意味はお母さんの言葉です。母親の言葉は私の母語です。例えば私の両親は客家人で私の母語は客家語です。ある人の両親は○南人、もしくは原住民で彼らの母語は○南語とか原住民語で す。  

 約五十年前に政府は国語(北京語)の政策を押し広めるために学校で友達の間で北京語しかしゃべってはいけないと決めました。そのほかの言葉は禁止されました。もし友達の間でほかの言葉をしゃべったら必ず先生にひどい言葉でしかられました。始めは、国語の政策を押し広めることは厳しくありません。約二十五年前から、政府や教育部(文部省)は厳しく押し広めました。例えばテレビの番組では母語の使用は禁止になって母語に関係のある言葉は一切使われなくなりました。その結果、たくさんの子供たちは自分の母語を話せないようになってしまいました。これは怖いことですね。たくさんの子供たちは自分の祖父母 としゃべることができません。(今台湾では大部分の六十五才以上のお年よりは日本語と自分の母語だけ話せてほかの言葉は全然話せません。けれども、子供たちは北京語しか話せません。)子供たちと祖父母の間が遠くなってしまいました。会って話そうと思っても通じません。お年よりたちはたくさんのいい観念を伝えられません。だから、お互いに理解できません。  

 最近、台湾ではだんだん母語問題が重視されるようになりました。初めて母語の教育を押し広めようとしています。小学校から国語の授業がありますし、母語の授業もあります。母語にとってこれは大切なことです。でも、学校の中で母語の教育は少ないです。学校の教育を押し広めて家庭の中でも母語を使わなければいけません。  母語を使う場合は故里や家庭で自分の目上や母語のできる人と話す時です。その外の場合は北京語が使われています。これで自分の母語の保存もできますし、ほかの族群も尊重できます。  

 母語は一番きれいな言葉だと思います。母語はそれぞれの文化の中で重要な働きをしています。自分の母語を忘れることと自分の文化を忘れることは意味が同じです。もし自分の文化は博物館の中にだけ見えることは大変悲しいことです。お年よりたちのいい観念も伝えられません。これはざんねんです。だから、家庭や故里などでできるだけ、母語をしゃべった方がいいと思います。自分の母語は決して忘れません。

「本当の豊かさとは」  岩村ウイリアン雅浩(ブラジル)
 私は五歳の時、家族と一緒に一年六か月日本で生活したことがある。この時、山口県の田舎の方で暮らし、幼稚園にも通った。私は、四人の兄弟とともに両親に色々な面白い所へ連れて行ってもらったり、ごちそうを食べさせてもらったりして、本当に楽しい日々を過ごしていた。そこであまりにも日本のことが好きになってしまい、私はブラジルへ帰るのが嫌になった。これが現在私が日本に滞在していることにつながるのである。帰国して以来、日本に来るのが私にとって一つの夢になった。  

 願いが叶えばだれでも嬉しく思う。無論、私も成田空港に到着した時、「あ、やっと私の夢が実現する日がやってきた。」と言葉には言い表せないほどの嬉しさが体一杯になった。しかし、日本での新しい生活をスタートしてからは不満と言ったら良いのか、日本に多く期待をふくらませていた私は多少がっかりしたこともあった。  

 今年の二月八日に来日して二年目を迎えた。最初の一年目は東京で一人暮らしをしていた。 ブラジルを離れて初めて家族や友人の大切さがわかるようになった私にはあまり人と接する機会はなかった。そのためにたまったストレスは解消する必要があった。私にとって、一番の方法は一人でどこかへ出掛けることや、 買い物に行くこと、または音楽を聞くことなどであった。週末はよく池袋の西武デパートや、渋谷の東急ハンズに行ったものだ。最もあまり楽しいとは思わなかったが、部屋でごろごろするよりはましだった。  

 日本は、ブラジルと比べて物を買うのは非常に簡単である。特に電気製品。初めて東京の秋葉原に行った時、本当に驚いた。まさに「電気製品の街」のようだった。子供から大人までがパソコンやテレビゲーム、ビデオなどを抱えながら嬉しそうにうちへ帰る風景を見るのはごく普通で珍しいことではなかった。  

 自動販売機でさえ珍しいと思っていた私はどれぐらいブラジルが遅れていたかを肌 で感じた。資源に乏しい状況にもかかわらず、何十倍の面積をもつ先進国アメリカと肩を並べられるほどの経済大国、日本。私は日系人として生まれてきて本当に嬉しく思う。自慢したいほどの誇りをもつ。  しかし、すべてがパーフェクトというわけではない。 この二年間、日本の良いところも見せてもらったが、残念なこと、あるいは悲しいことも目にした。  

 日本人は何でも簡単に捨てる。引っ越しする時でも、荷物になるからと言ってまだ何年も使えるものをすぐ捨ててしまう。引っ越しのシーズンにはマンションやアパートの前に家具や電気製品が捨てられているのを見るのは決してまれではない。多分日本人は豊かだからこそ何でもかんでも捨てる気持ちになるのだろう。第二次世界大戦後の日本人はものをやたらに捨ててはいなかっただろう。当時の人はすべてを大事にしているのだ。私の祖父母はその代表的な例である。私がある時、コンビニの袋を捨てようとすると、「罰が当たるぞ。」と叱られた。これぐらい以前の日本人は物を大切にしていたのだと、私はその時わかった。残念ながら今の時代は全く逆のようだ。戦後の苦しみを経験していない世代はあたかも常識のように何でもすぐに捨てる。私も出来るだけものを大切にするが、なかなかそう簡単にはいかない。豊かな国では新品を買いたいという欲望がものを大事にするという気持ちに勝ってしまうのだ。  

 人間はこの世に現れてからずっと発展し続けて来た。発展の無い人類は成り立たないからこそ進歩を抑えることが出来ないのだろう。私が最も恐れるのは、現代資本主義が発展途上国の経済発展に拍車をかけていることである。私は資本主義を批判しているわけではない。むしろ、日々の生活を豊かにして来たので感謝している。

 しかし、経済が発展し、物質が豊かになるにつれて、都市化が進み、緑も減少している。また地方での人間関係とは違い、大都会では隣人に対する心配りも無くなっていくということも実際に起きているのである。田舎育ちの私が東京で生活したからこそ、こうはっきり言えると思う。  

 ブラジル人は性格が明るく、他人であるにもかかわらず、困った人を親切に助けてあげる。国は緑もとても豊富で、立派な自然の持ち主である。そういうブラジルをいつまでも失いたくない。多少経済的に乏しいかもしれないが、物質的に満たされて人間性の無いブラジルは見たくない。  

 本当の豊かさとは何だろう。日本人に対して失礼かもしれないが、最終的に日本の ようになるのであれば、私はブラジルが今までの状態でいて欲しい。貧乏であっても。

 私はそう思う。

審査員特別賞(上級)
「HERE IN OSAKA」  李 温九(韓国)
 韓国ソウルの金浦空港から飛行機に乗って、一時間三〇分程すると、次のようなアナウンスがあります。「アテンションプリーズ、まもなく大阪関西国際空港に到着致します。大阪での時間がたのしいものとなりますように(Have a nice day here in Osaka)・・・。さようなら。」飛行機の窓から最初に目につくのは、大阪の青い海です。その青い海には、何隻かの白い舟がまるで宝を散りばめたように浮かんでいます。私はそれを見ると、いつも「あぁ!大阪に 来たんだなあ!」と感じます。  

 人の一生において結婚を一つの分岐点と考えるならば、私は人生の前半を韓国人として韓国で送りました。私は韓国で生まれ、成長し、教育を受けました。そのため、私の考え方、価値観、行動は純粋に韓国式です。それがある日、大阪人である夫と出会ったのです。私の夫は在日韓国人ですが、大阪で生まれ、日本の教育を受け、三〇数年の人生の大部分を大阪で過ごしました。そのため、夫の思考や味の好みは完全に大阪スタイルです。そんな大阪人の夫と運命的に出会い、結婚することになり、大阪に住むことになったのです。私にとって大阪は、人生の後半を送る所となり、独立した人間として成熟していく土地となりました。また、韓国人として、日本の中で生活しなければならない場所となったのです。  

 大阪の中心を流れる淀川を見ると、同じようにソウルの中心を流れる漢江(ハンカン)を思い出します。また、青信号にかわる前から歩き出す大阪人を見ると、せっかちな韓国人のことが頭に浮かびます。お正月に百貨店に行くと、福袋を買うのに、袋の中味をそっーと、のぞいているおばちゃん達が見られます。上品で他人の目を気にする他の地域の日本人より、彼女達の方がとてもいとおしく感じられます。もちろん、韓国人の私もそのおばちゃん達の仲間に入り、福袋の中をのぞきます。袋一ぱい千円のくりを買う時も、袋がやぶれそうになるまで、ギュウギュウにおしこんでいる大阪人を見ると、うれしくなります。韓国 人である私も、負けずにギュウギュウと詰め込みます。  

 興奮しやすく、せっかちで、他人の目をあまり気にしない韓国人にとって、日本人は秩序を守り、沈着で、他人の目をとても気にするというイメージがあります。けれども、大阪人は少し例外のようで、韓国人の私と、とてもマッチします。日本に来る前、私の一番の心配事は、私の考え方や性格が日本と合うだろうか?ということでしたが、少し安心しました。  

 しかし、日本で生活するうちに、また少しちがった心配事ができました。韓国でも人気があった日本のマンガ、マジンガーZには、男と女が半々のアシュラ伯爵という変な人間が出てきます。私も日本で生活しているうちに、半分が韓国式、半分が日本式の考え方をするアイデンティティのない中途半端な半分半分人間になってしまわないかという心配です。

 車に乗って御堂筋を走っていると、白い馬と黒い馬がすれちがって、きれいなしま馬になる電光広告を見ることができます。その広告は、私にいろいろなことを考えさせます。もし、この二頭がうまく合体できず、頭だけが真っ黒で、体は白といったバランスの悪い奇妙な馬にできあがったら、どうなるのでしょう。日本での生活を、私はガンコに韓国スタイルでしたくもないし、無理をして、日本人的な生活にもあわせたくありません。私が様々なことを体験していく中で、韓国と日本の生活習慣のいいところをうまく取り出すことができればと思います。私は白い馬と黒い馬がきれいなしま馬になるように、日本と韓国のうまく調和したバランスのとれた人間になりたいと思います。  

 日本、特に大阪での生活は私の人生にとって、神様がくれた贈り物だと受けとりたいです。大阪の海に宝石のようにかがやく白い舟のように、私の人生という海に、大阪で過ごす時間が宝石として輝き続けることができますように。  

 「・・・・アテンションプリーズ、おかげさまで、今、私は、ここ大阪でたのしい時を過ごしています。」


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