大阪鶴見ロータリークラブ 国際ロータリー 第2660地区
ロータリーの創設者 ポール・ハリス

卓話者 ポール・ハリス氏 (弁護士)
1868年4月19日生まれ
 市俄古の北六十哩、ミルヲーキーの南二十五哩、北米第二位の大潮ミシガンの沿岸に、レイシンといふ小さな都市がある。レイシンの名が米国内に広く知れ亘って居るのは、此の市が幾つかの国家的に重要な製造工業を持って居るからである。併しレイシンの市民は製造工業にばかり没頭して居るのではない。其処にはレイシン大学を中心とする文教上の関心もあるのである。

此処の市民の中に最も光彩を放った二人の名士の一人に、第二次の市長に挙られた、ヘンリー・ブライアンといふ弁護士があった。ブライアンの父は紐育州西部の草分けの一人で、祖父はマサチエセッツの産、また曽祖父はアイルランドから移住した人であった。この曽祖父の時に偶々旧姓オブライエンを転化して、ブライアンと改称したといふことであるが、その理由の何故かは筆者とても知らない。

ヘンリー・ブライアンは、例の1849年の金鉱熱時代にカリフォルニア探検隊を組織して其の牛耳を取り、計劃財政万端を自分に引受けて成功を夢みたのであつたが、此の冒険の結果は、死後彼の未亡人に遺すに、唯だ小さな家庭以外の何物をも以てしなかったといふ有様であった。ブライアンの末娘はコーネリアと言って、ヴアーモント州ヲーリングフォードに住むハワード・ハリスといふ人の息ジョージ・エイチ・ハリスなる一商人に嫁した。

ジョージとコーネリアとの間の第一子はセシルと名づけ、その次男はポールと呼んで1868年4月19日の生れであった。

セシルとポールとは、いつも一緒に近所の子供等と遊んだが、セシルは毎日腕白な弟の面倒を見ねばならなかった。よく浮か浮かと急な堤防などを下って、鉄道線路に彷ひ出たりしたものであるから、そんな時には、ポールを引張り上げるのに、近所の子供達が殆ど総掛りで努力しなければならなかった。