2001年度入賞作品

初級

頑張ってねえ  徐林軍(中国)ジョ リングン  最優秀賞

日本では、「頑張ってねえ」という言い方が日常でよく使われるようです。人と人との出会いの時とかわかれる時とかに、励まし合う気持ちを表すように「頑張ってねえ」と言います。でも、中国の場合では、頑張るという言葉の意味にあたる言葉があっても、めったに使いません。  

だから、私は仕事関係で出会った日本人の方に毎日「頑張ってねえ」と言われた時、そういう言い方がなかなか受け取れなかったし、何だかへんな感じがしました。私はもう仕事をきちんとやっているし、努力することもわかっているのに、なぜ毎日毎日「頑張れ」「頑張れ」ばかりいうのですかと心の中で不満を抱いていました。  

だが、日本人の方とのコミュニケーションが進んでいくと「頑張って」という言い方の意味合いがわかってきました。今では、私も「頑張ってください」と知り合いや友達に言います。特に日本に来てから、忙しい生活を送る毎日の中で「頑張る」ことの大切さをもう一度深く考えさせました。  

そう、人間は頑張るべきです。頑張ってこそ人生が楽しいのです。頑張ってこそ豊かな生活ができるのです。頑張れば頑張るほど生きることの意味がわかっていきます。怠け者は人生の本当の楽しさがわかっていないし、きっと無意味な人生を送ってしまうでしょう。われわれの人生は怠け者の人生ではない、頑張る人生のはずです。  

私の本当のひとり暮らしは日本にきた時から始まりました。中国にいた時、親たちから支えられてひとり暮らしの大変さを考えたこともなかったし、外国にいって独りぼっちになったら何をすべきかもあまり深く考えていませんでした。でも、日本にきてから直視しなければならないことが山ほどあります。日常の生活からいえば、洗濯したりごはんを作ったりしなくてはならないし、新しい生活環境に適応するようにさまざまなな勉強をしないとすぐ困ることが起こってしまうのです。とにかく好きといい、嫌いといい、自分の生活、自分のことをきちんとしなければ留学の目的を達成できません。もちろん、留学はせっかくのチャンスだったので捨てるわけではなく、夢を抱えて困難を克服して、頑張ってやりぬ かなければなりません。確かにやったことがないことを努力してやっているうちに、だんだんうまくいきました。しかも、いい経験を得て、自信がつきました。小さくても成功を味わいながら、頑張る人生の楽しさとか大切さがさらにわかりました。  

これからも私はきっと精いっぱい立派な人生を目指して頑張っていこうと思っています。

 

日本の生活と感想 
CHAN HUNG FAI BORIS(イギリス(香港))チャン ハン ファイ ボリス 優秀賞

わたしはこれまでに四回日本へ来たことがあります。前は旅行に来ましたが、今は日本語の勉強に来ました。気持ちがちょっと違います。わたしは日本へ来る前にホンコンで六ヶ月日本語の勉強をしました。しかし、日本で日本語の授業が始まって、日本語学校の先生の言葉は全然分かりませんでした。今まで、一ヶ月勉強して、だんだんわかってきました。でも、テレビとラジオの言葉はあまり知りません。それでわたしは専門学校に入るために一生懸命勉強しています。  

わたしはこの間大阪城へ花見に行きました。春になると桜の花は満開になるので、とてもきれいでした。大ぜいの人々が食事をしながら話しました。ところでそこには音楽家や画家や手品師などがいました。手品師の手品は一番おもしろかったし、ある男の人は踊るとき、子どもとマジックをしたり、大人とジョークをしたりしました。わたしは楽しかったです。  

日本の四季ははっきり違いますが、ホンコンの季節はあまり違いません。日本人は親切ですが、ホンコン人は冷淡です。わたしは毎度分からない場所があれば、となりの人たちは詳しくちずに書いて、さらに、いっしょにそこまで連れていきます。日本は仕分けてごみを捨てることがありますが、ホンコンは仕分けてごみを捨てることがありません。わたしは一度リサイクルプラザへ行きました。この場所は紙パックとアルミ缶 を受け付けています。蓄積する紙パックなどを図書券と交換します。不用になった家具や自転車や本や衣類などを修理すれば、市民の方に差し上げられ、不用品のリサイクルができます。この場所にはリサイクル教室があります。傘や紙や衣類のリフォーム、きれいなパッチワークを教えて、有用の物件が生まれます。みないっしょに世界をきれいにするためにごみを縮め続けています。実は、ごみの問題はわたしたち自分の問題です。わたしたちはごみを捨てる前に真面 目に考えると、ごみが減量することになるし、地球を救う第一歩になると思います。

 

永遠のプレゼント 王 粛(中国)オウ シュク 優秀賞

私は日本へ来て、一ヶ月ぐらいです。このごろ、いつも家族に電話をかけるんです。母がみたくなります。

私は母が大好きです。母は仕事も料理も上手で、やさしい女性です。子供の時から今まで幸せな娘だと思います。でも、母は特別 にいつも感動しやすいです。テレビを見て泣く、本を読んで泣く、映画を見て泣く、そのとき、原因はなんですか。私はよくわかりませんでした。  

日本へ来る前に、四十五歳になる母に、私は初めて誕生日プレゼントを渡す計画をしました。その時、私は東北師範大学の赴日留学生予備校の寮に住んでいたから、直接プレゼントを渡す事はできませんでした。そこで母には内緒で、花屋さんに花束とカードを九月二十日に届けてもらうことを約束しました。そして、花屋さんに「ひみつですよ。」といいました。準備OK!その日は九月八日でした。  

月曜日に学校の寮へ帰りました。その後で毎日忙しかったので、私は家に一度も電話をしませんでした。次の休日も帰りませんでした。それで、母は私に「毎日何をしているの、どうして家へ帰りませんでしたか。外へ遊びに行くから、帰る時間がなかったでしょうか。私たちはあなたがたいへん心配でした。わかりますか。では、母の誕生日はきっと忘れているでしょうね……」怒って電話でいいました。  

九月二十日になりました。母の大好きなバラの花束とカードを持って花屋さんが登場!母はびっくりしました。「娘さんからのプレゼントですよ。誕生日おめでとうございます。」その瞬間母の目から涙が泉のようにわきでました。その日、母の友だちは私たちの家をたずねました。それを見た友だちも感動しました。「いい娘さんですよ。」といいました。その情景は父からききました。  

次の日、学校のひる休みに母は電話をかけて、「あのね、誕生日を忘れたと思いました。でも、きれいなプレゼントをくれました。ありがとうございます。あの日にそんな腹がたった言葉をいいましたが、ごめんね。」といって突然泣きはじめました。「そんなことじゃないよ。私が母の誕生日に家へ帰らなかったことはごめんなさい。」母といいました。実際はこころがいっぱいで「母はプレゼントがすきだった、それはよかったですね。」  

今、私が日本から、電話をかけるとき、いつも母は泣きながら、はなします。そんな丁寧な言葉をいつもわすれることができません。私がプレゼントをした花束は乾かされました。母の部屋に飾ってあります。きっと母はその花束を見て、ときどき私をみたくて、泣きます。とても心配だからです。  

私はもうすぐ二十歳です。母の気持ちがわかりました。泣くことは愛心の表現だと思います。母の涙は私の一生の中で永遠のプレゼント、こどもへの愛がいっぱいだからです。

 

わたしのしょうらい
LIN TUN WIN(ミャンマー)リン トンウィン 審査員特別賞

わたしはミャンマーから来た日本語を勉強する学生です。わたしの国は日本からとおいです。中国の南にあります。わたしの国のひがしにタイとラオスがあります。西にインドとバングラディシュがあります。わたしの国ではこくさいぼうえきいがさかんです。日本ともぼうえきをしています。わたしの国に日本人は四千人ぐらいいます。日本の支社がたくさんあります。日本語のじゅくや日本のレストランや日本のスーパーもあります。わたしの国には車がたくさんありますが日本の車はその四分の三です。わたしは子供の時から車が大好きでした。だからわたしは車のおもちゃと日本せいのきれいなあたらしいモデル車のしゃしんをあつめていました。わたしは車の中に何がありますか、どのようにつくりましたかといろいろなことをいつもかんがえていました。たいへん知りたかったです。わたしは十六さいで車をうんてんしはじめました。わたしはたくさん国の車の中で日本の車が一番好きです。日本の車はべんりです。だから日本の車はたくさんあります。この車がこわれると、こまります。日本せい車をしゅうりする「workshop」がまだたりません。きかいのせんもんの技師さんもまだ少ないです。だからわたしは日本で車きかいかんけいのせいもんをならいたいです。日本はおもなぼうえきこくですからわたしは日本へ行って日本語学校で日本語を勉強したいと思って日本へ来ました。わたしは国でミャンマー語とえい語を小学校から高等学校までならいました。この間休みの時は日本語を勉強しました。わたしは国で日本語を日本人先生とミャンマー人先生に一年間、ならいました。それから日本へ勉強しに行きました。わたしはひこうきにのって来ました。ミャンマーから日本まで六時間ぐらいかかります。せいれき二千一年三月三十日に日本につきました。わたしは大阪のいなだしんまちに住んでいます。大阪は人が多いです。それに、ぎじゅつがすすんでいます。こうつうもべんりです。わたしの家から学校まで一時間ぐらいかかります。わたしの学校の名前は関西国際学友会日本語学校です。わたしの学校はうえほんまちにあります。学生は三百人と先生は三十人ぐらいいます。学校の先生はていねいで、まじめでしんせつです。おしえかたもいい先生です。わたしの受け持ちはひしくら先生です。学校にいろいろの国の学生がいます。ミャンマーの学生は一人しかいません。学校ではじゅぎょうは毎日六時間あります。「Language Laboratory」のじゅぎょうもあります。日本語はおもしろいです。けれどもかん字はむずかしいです。だからわたしは日本語をいっしょうけんめい勉強したいです。学校で日本語を一年ならってから工科大学で機械学を勉強して技師になりたいです。わたしは先生のおしえにしたがい勉学にはげむことをちかいます。

 

中級

中国の食卓と日本の食卓  孫ロロ(中国)ソン ロロ 最優秀賞

日本に来て中国と文化が違うことや事情が違っていて驚いたところはいっぱいある。例えば、食事一つでも日本と中国では大いに違うことが分かる。  

まず中国の食卓を紹介しよう。  

まず、中国ではテーブルは四角いものより丸いものが多い。特に高級なレストランだと決まって丸いものと言える。それもその理由があるからだと思う。本格的な中華料理店に行って中華料理を食べたことがある人は皆体験したことがあると思うが、中国の料理は日本のように一人分ずつ出てくるのではなく、ボリューム満点の大皿料理である。つまり、皆で一緒に食べる料理だということである。それに対し日本のテーブルは四角いかカウンター式が多い。それもそうであって、日本人は料理が一人分ずつ出てくるのがほとんどで量 が少ない。人数が多くなると、同じ料理を二つ以上頼むこともしばしばある。中国ではほとんどないともいえる注文の仕方である。  

食器について言うと次のようなことが取り上げられる。食器の色を見ても中国のさらやお茶碗はほとんど一色で、形もほとんどワンパターンである。その色を見ても白とか白をベースにして花柄や絵などが描かれているものである。日本のように各店の或いは家庭においてある食器の色や形を楽しむというのは中国の食卓ではほとんどありえないことである。また、中国のお皿などはそのほとんどが丸いものである。日本では居酒屋とかちょっとおしゃれな和食屋さんにいくといろんな形の食器が出てきて、それを楽しむだけで、嬉しくなり、料理もおいしく食べれるような気がする。また、日本では焼き物の食器やコップが多く従って黒っぽい食器も少なくない。これは中国では考えられないことである。  

また、中国では同じ料理を食べる時でも各自自分の箸を使って料理をはさむ(スープ用の大きいスプーンがいる場合は別 だが)。しかし、日本には同じ料理を皆で食べる場合はほとんどが、共同に使うスプーンやお箸を使う。中国人である私にとっては面 倒に見えるし、実際何回も間違ったこともある。これに関してもうちょっと言うと、日本にはマイカップとかマイ箸という言葉がある。中国では学生の寮とかでは使えそうな言葉であるが、家庭でもマイ箸を置いてあるということをはじめて聞いた時はびっくりしたのである。  

次は食べ方について見てみよう。  

中国人は自分の家でもそうであるが、時にお客さんをもてなすための食卓はあふれるほどの料理がテーブルに重ねていく。丸いテーブルに丸いお皿をいっぱい重ねて、回りと中心の高さが違うようになると満足のいくご馳走だと思うからである。もちろん一皿一皿の料理はボリューム満点で、重なった料理名もない。これをみて日本人は「わぁ、すごい」といいながら驚く表情を隠せないと思う。しかし、中国人にご馳走してもらった日本人は一回ぐらい思ったことがあると思う。つまりこれは絶対食べられない。その通 りである。最後は絶対食べられないのだ。どんなにもったいないことをしているんだろうと日本人は思うだろう。しかし、残るぐらいのご馳走をつくらないと中国人は逆に申し訳ないと思ってしまうのだ。  

中国にくらべると日本は全然違う。ほとんどの日本人は残すことを恥ずかしいと思っている。それは料理を作ってくれた人への失礼だと思っているんだろう。  

些細なことでもとても大事に思っている日本人は料理についてもそうである。そのため出される量 もすくなく、足りない場合は二回頼めばいいのではないかと思うのであろう。日本人は合理的である。  

なぜ、食べること一つでもこんなに差が出てくるんだろう。日本に来てよかったと思う。  

私は中国も好きだがいろんな不思議な点を見せてくれる日本、顔は似ていても、全然違う考え方をしていて、新鮮な面 を見せてくれる日本人が好きになった。これからも日本で頑張って、日本人の長所を見つけ見習っていこうと思っている。

 

私の留学の旅   劉トウトウ(中国)リュウ トウトウ  優秀賞

人間にはいろいろな夢がありますが、私にも夢があります。子供の頃は軍人に憧れていました。というのは国を守りたかったからです。でもそれは子供の夢にすぎませんでした。大きくなるにつれてこの考え方は変わりました。私の国の生活レベルが低いことがよくわかりました。中国の国民が毎日一生懸命頑張って、国を建設しているのを見ると、私にも責任があると感じました。その時から、中国を強国に造り上げるのが私の夢になりました。  

また、中国のとなりの国、日本は科学と技術が進んでいるし、多くの点で学ぶ価値があります。日本は私の勉強の聖地だと思います。月日は早く過ぎ、私は国の高校を卒業し、進路で悩むころになりました。そんな時、「日本に留学する」という話が出て来ました。そこで、日本へ留学して、大学で先進的な技術と知識を勉強しようと決めました。それから両親の期待と私の夢をつれて、自信満々で私の留学の旅が始まりました。  

日本へ来たのは半年前のことです。全く新しい環境の中で、親と離れた孤独と好奇心に満ちていました。私は新しい人生を歩み出しました。日本語学校に入って、毎日日本語を聞いたり、話したりしています。また、先生はとてもやさしいし、教え方がおもしろいので、日本語を習いやすい感じがあります。先生ともすぐ友達になりました。学校も生徒にいいことをよくしてくれます。パーティーとか、旅行とかいった活動がたくさんあります。それは日本語の勉強にいいと思います。  

そして、日本語だけでなく、日本人のもののやり方についてもよく勉強しました。たとえば、時間を守るのは日本人のいい点です。毎日地下鉄が来る時間は一分もちがわないんです。また、日本人は礼儀正しい国民だと思います。挨拶の言葉が多いですが、電話する時、身内以外の人と話す時、よく敬語を使います。  

日本人と出会い、交流するうちに日本の生活にだんだん慣れてきました。日本人の考え方や気持ちを少しずつ理解できるようになりました。しかし、時々ホームシックになることがあります。学校の休みの日に一人でいると心の中に隠れていた孤独が湧いてきて、何とも言えないさびしい気持ちになります。そんな時は遠い故郷にいる両親と友達のことを思い出します。一人外国にいて、テレビに祖国の音楽が流れると、涙が出るほど祖国を恋しく思います。でも私の夢のためだから、簡単にはあきらめません。  

私は日本の大学に入りたいと思っていますが、そのためには日本語が上手にならなければなりません。でも、日本語の勉強は思ったより難しいです。「日本語には漢字があるので、中国人は日本語を習いやすい。」そんなことを言う人がいますが、これはほんとうではありません。漢字は中国から来た字なのに、読み方や書き方がちょっとちがいます。中国人だからこそまちがいやすいと思います。それに、かたかなは外国の言葉に使いますが、いつも困っています。ほかにも文法や敬語や助詞など、いろんな問題があって大変です。

日本へ来て、勉強が一番大切だということを思い知りました。今のままでは大学に入れるかどうかわからないので、頑張らなければなりません。しかし、中国からの留学生にはいろんな勉強と関係ない問題があります。とにかくお金が大変です。私の家庭は中国の普通 の家庭ですが、日本の高い生活費を負担することが難しいです。そこで私はアルバイトをして、生活費のたしにしています。両親の負担を軽くするためです。しかしそうしたら勉強の時間が少なくなり、勉強する元気もなくなってしまいました。それは私がそうなりたくない、そうなってはいけないと思っていた状態です。その報いなのか試験の成績がわるかったです。そこで、今度の試験ではいい点を取りたいという気持ちになり、授業の時よく聞く一方で夜おそくまで一生懸命勉強するなど、いろいろ努力しています。次はかならずいい成績を取ります。  

以前は何度も自分に「どうしょう。」と聞いていました。さまざまなことを経験し、今ひとつの答えを得ました。私達は人生の中で毎日いろんな挑戦をしています。そして時には失敗や挫折に打ちのめされることもあります。しかし、それは一時的な失敗や挫折であり、最後の結果 ではありません。頑張り続けたら、得るものは多いでしょう。  みなさん、自分の理想ために、頑張りましょう!

 

日記をつけますか  宋ショウレン(中国)ソウ ショウレン 優秀賞

日記というものは字引で引くと「毎日のできごとや感じたことを書きしるした個人の記録。」です。こどもの時、私は日記をつけませんでした。いつも日記なんかは値打ちがなくて、時間もかかると考えていました。それに毎日つければなにを書くか困っていました。でも時間が立つのは思ったより早いです。たくさんのものは覚えるまえに自分のきおくの中から消えてしまって、長い時間の川の中に流れて行ってしまいました。その時、はじめて日記はただ書くだけのノートではないと気がつきました。  

日記は心ゆくまで話すものです。そんな話は限りがないし、しめきりがないし、規則もありません。それに聞く耳は永遠に疲れや飽き飽きなどを感じません。悩む時やあきらめたい時にはいつも私も日記をあけて、いろいろな話を書きます。悩んでいたことはすべて日記を閉じる時にまるで消えるようです。  

日記はうそをつくことができません。楽しいことや悲しいことと問わず、一言一句全てが自分の本心です。時々生活は順調に過ごすことができません。現実にいる私はある時困惑し、ある時壁にぶつかり、ある時道にまよいます。その時私は日記をあけます。かざるものがなくて本当の自分はその中できっと見つけることができます。  日記は一瞬の気持ちを恒永にします。たとえば、私は今日おいしい料理を食べたとか、私は友だちと一緒に楽しい遠足に行ったとかです。食べ物はもう食べてしまったし、遠足からももう帰ったけれども、その時の雰囲気や自分の気持ちはずっと日記にのこっています。  

もしかしたらあなたは「書けることは少ない。」と思っているかもしれません。じつは生活には感動させられるところがたくさんあります。もしかするとふるさとの懐かしい心持ちがついているやさしい一陣の風が突然にふいて来るかもしれません。秋風が落ち葉を吹き払う時に木の上に最後の一まい堅忍不抜のはっぱが落ちて来るかもしれません。または激しく照りつける太陽のたたりにあるのは、気に掛かる人と似ている姿かもしれません。そんな単純でちいさな感動も生活の真実と思います。そのような感動がありませんか。日記につけたことがありませんか。  

六十年あとでは、私はもう八十歳の年よりです。かみのけは全部しろくなって、身の調子もよくないかもしれません。でもひとりで窓のそばのいすにこしかけて、自分の日記を読んでみると、気持ちはまるで若者の時にもどるようです。顔に微笑を浮かべながら、以前の幼稚な私が成長の軌跡にのこした足跡を見ているでしょう。今は思いもよらないかもしれないけれど、その時にひとつの細かいプロットさえ、自分をそんなに懐かしませることができるんです。今の私は本来の歴史を創っているのではないでしょうか。日記は人生の証明となるでしょう。  

あなたは毎日日記をつけませんか。

 

言葉との出会い プリーシャー サロン(タイ) 審査員特別賞

わたしはタイのプーケットで高校卒業後、へいたいや、けいさつかんになりたくて一つの専門学校をうけました。しかし、新しい学科であったので人数が少なくてクラスを作ることができませんでした。めんせつの時に先生のすすめもあり、わたしはかんこう学科にすすむことにしました。その二年間の間に日本語のせんたく科目を勉強して日本語のガイドになりました。お客さんとかかわる中で新しい日本語や文化、しゅうかんが少しずつわかってきた時、つまと出会い、けっこんして日本へ来ました。プーケットでのガイドのレベルは高かったのですが、日本ではしごとをえらぶこともむずかしくてたいへんでした。二年半ぐらい自てん車の組立の工場につとめてその中で一つの言葉に出会いました。目の前にある白い紙に書いてあることばが毎日気になるのですが、全くわかりませんでした。どうしても気になるので友だちに聞いてみました。そこには
@ 自分がかわれば相手がかわる。
A 相手がかわれば心がかわる。
B 心がかわればことばがかわる。
Cことばがかわればしゅうかんがかわる。
Dしゅうかんがかわればたいどがかわる。
E たいどがかわればうんがかわる。
Fうんがかわればじぶんがかわる。
ということばが書いてありました。この言葉は、まず自分自身がかわることによってたにんやかんきょうがへんかしていくということをおしえてくれます。人はなんにかもんだいが起こったときに、そのげんいんをたにんやかんきょうのせいにすることがおおい。そして、まわりにかわることを求めます。だけれども、じっさいのところ、本人自身がげんいんであることがおおいのです。たにんやかんきょうをかえさせることは、そうかんたんには行きません。でも、まず自分自身がかわることによってまわりにえいきょうをあたえることができるのです。たにんに何かをしてもらうことばかりを求めていても、かんきょうはかわりません。自分自身がいごこちよく生きていくことをかんがえてこうどうしていけば、しぜんにまわりもかわって行きます。何かもんだいが起こったときは、一番に自分の心を見つめなおすことがひつようなのでしょう。自分がかわらなければ何もかわらないということ。けれど、しゃかいかんきょう、かていかんきょうなどをねんとうにおくことができればせかいじゅうがへいわになるはずだということ。わたしのかこの人生からもこの言葉どおりにすすんでいることがわかります。もっともっと日本語を勉強してなっとくのいく人生を送りたいと思っています。今では、この言葉を見ずにいうことができるぐらいこの言葉が好きになりました。この七つの文に出会えてよかったと思います。

 

上級

優しい国と私の変化 崔益華(中国)サイ エキカ 最優秀賞

2001年の春節(旧正月)、私は帰国する際、父のために日本製の缶ビールを一本買って帰りました。父に日本のビールを味合わせてあげようと思ったからです。家族の宴席で私はそのビールを開けようとした時、ふと、そのあけ口の横に点字が刻まれているのに気がつきました。それは私にとって予想もしないところにあるものなのでとても驚きました。そしてそれを父に見せました。父は普段とても言葉が少ない人です。しかし、それを見てとてもびっくりした様子で「まさか缶 ビールに点字が刻まれているなんて…日本人はよく気を使うなー」などと言っていました。点字は普段中国での生活の中でお札ぐらいでしか見かけないものだから、父がそのように言うのも無理はないのです。  

私は中国に居る間、中国政府が身体障害者をとても重視しているという報道や記事をよく見かけました。しかし、日本に来てから初めて「そう言えば中国では身体障害者向けの設備やサービスはほとんど見かけなかったなー」と思うようになりました。私が初めて盲人道見たのは2年前、中国建国五十周年の時でした。その時、北京では各大通 りを造り直す工事が行われていました。造り直された道のまん中には、それまで見たこともない凸 凹がある黄色い細かい物が敷かれていました。私は最初それが雨や雪の天気の時に通 行人が滑らないために造られている道なのかな、と思いましたが、後にそれが盲人道だということが分かりました。そして、去年私は日本へ来て、日本の道や駅でも中国と同じような凹凸 のある黄色い道をよく見かけました。そのことによって、盲人道は国際的な福祉設備であることが分かりました。にもかかわらず、当時、私の回りの人々はそれを知っている人はほとんどいなかったようです。盲人道は私達の生活に全く新しい光景として入り込みました。しかし、私の意識の中では盲人道はまだ、障害のない人も歩く普通 のただの道でした。つまり、盲人道によって私の身体障害者に対する意識は何も変わらなかったのです。  

ところが、ある小さな事柄が私のその意識を変えました。それは、私が日本へ来て間もなくのことでした。

私の住んでいた所から駅の間に交差点があります。外出する時私はいつもこの交差点を通 りましたが、時々「ぴよぴよ」と小鳥の鳴き声のような音が聞こえてきました。その音がどこから出たんだろうと不思議に思ったことがありますが、「なんだろう」と真剣に考えたことはありませんでした。ある日、主人と外出して、その交差点を渡る時、またその音が聞こえてきました。不思議なことに主人もその音の真似をしはじめました。「それは何の音?」と私は思わず主人に訪ねました。「あれは目が不自由な人が信号を安全に渡る為に設置されたものなんだよ。」と教えてくれました。「なんだ!小鳥の鳴き声じゃなかったんだ。特別 な信号だったのか」と私は一瞬にして理解しました。しかし、最初のうち、私はその音にたいへん違和感を感じていました。20年以上にも及ぶ中国での生活の中で、私は一度も音の鳴る信号を渡ったことがなかったからです。やがてその音にだんだん慣れてくるにつれ、身体障害者の存在を意識し始めました。信号を渡ると「もしかして、身体障害者の人も、私と同じようにこの信号を利用しているのだろうな」とだんだん思うようになり、この国の身体障害者に対するこまやかな配慮や思いやりを感じていました。  

その後、外出するたびに障害者へのいろいろな配慮を見かけました。電車の切符自動販売機の点字、駅で車椅子の人を手伝っている親切な駅員さん、車椅子の人でも簡単に移動ができるエレベーター・・・。そして、父に買ってあげた缶 ビールに刻まれている点字。  

私はこのような体験を通して日本人の「優しさ」を学びました。身体障害者の人々は私の身近な所で生活しています。私が外出したときに彼らに出会うこともあるでしょう。そして、街で彼らが、いいえ、健常者も困っている場面 に遭遇したら、私は「ほんの少しの勇気」を振り絞って彼らに「お手伝いしましょうか?」と言えるでしょう。そして、世界の全ての人々が「優しさ」と「ほんの少しの勇気」を持つようになれば、世界はもっとすばらしくなると思います。

 

大阪、好きやねん 王一惠(台湾)オウ カズエ 優秀賞

日本語を習ってから、何人かの先生にこう言われた覚えがあります。「大阪弁は、下品、騒がしいと思われがちなので、あまり使わないように。」確かに、標準語とアクセントは違って、地方なまりとかはありますが、大阪弁は本当に下品でさわがしいのでしょうか。  

大阪、大阪人は大阪弁のようにマイナスに思われがちですが、私はここに来て思いました。大阪はエエところやねん。  

まず、大阪弁。これは「マック」と「マクド」の違いだけではなく、全体的に豊富なニュアンスを持っているところがチャームポイントです。「大阪人が二人集まると漫才になる」と言われていますよね。その通 りだと思います。それは陽気な性格とニュアンスのある大阪弁から生まれてきたものです。その上、大阪弁はユーモアな会話でコミュニケーションを和らげる力があって、時と場合によって標準語を交えて話すので、大阪の留学生にとって、大阪弁も勉強の一部だと思います。  

大阪弁と同じく、大阪の人は騒がしい、おせっかい、イラチと感じられています。確かに、大阪の人はお喋りで笑うことが好き、それにおせっかいなところがありますが、これだけあるからこそ、活気があってにぎやかな空気が街全体に漂っているのです。もちろん、大阪の人は、いいとろばかりではなく、ルール嫌いで、公共道徳心が低いという点は直すべきところで、直しさえすれば、大阪の人はいっそう魅力的になると思います。  

大阪で留学生活をはじめて、一番ひかれたのは、人々のチャレンジ精神です。大阪の人は、毎日を人生の一つのチャレンジだと思っているように、一日を過ごしているようで、出勤登校の時の目つきが、ほかのところの人よりイキイキとしています。これは多分、昔の商人精神だと思います。「世の中かけ引き」と思うのは、リスクはもちろん高いが、それは精一杯生きているという証拠の一つだと思います。その一方、物事をユーモラス、楽しい方向へ持っていくので、たとえガラが悪くても、下品だと思われても、プライドを持って自分なりに「真面 目」に生活している事がとても羨ましいです。  

大阪に来て、びっくりした事もいくつかあります。大阪の人は本当に日本一せっかちです。エスカレーターで、ほとんどの人が立ち止まらず駆けて行くことを見て、とてもおどろきました。それと、横の信号を見て動き出す人や車があまりにも多くて、カルチャーショックでした。前の信号が赤から青に変わるのを待つよりも、横の信号が青から黄色になって動く準備する方が時間のむだにならないのでしょう。商人にとって、「ときは金なり」ですね。  

さまざまな大阪、大阪人の特質、悪いと思ったところも幾つかあります。大阪人のごらくというと「お笑い」だけに限りがちです。「笑う」というものは健康的、精神的にもいいのですが、それだけでなく、幅広い分野の芸術や文化を取り入れても、「お笑い」は消えないと思います。これらの活動が育たないと大阪人のイメージは「お笑い」しか残りません。  

また、大阪ではよく「引ったくりにご注意」の看板が見られます。大阪では、引ったくりが異常に多いのです。大阪府警の統計によると、平成十年上半期だけで四千五百件を超えていて、全国の三割ぐらいです。交通 ルール違反や、整列乗車ができないとか、「ルール」「規則」「法律」が嫌いな大阪人はこれからそう思われないようにいかないと、イメージアップしにくいと思います。  

以上を含めて、私は大阪というここが好きです。そしてここでは生活しやすいし、居心地がいいです。留学生の私から見て、カルチャーショックもあれば、ひかれるところもあります。「どうしてもう少し並んで乗車できないのでしょう」と思った時もあれば、「街中イキイキしていて、自分も元気になってきました」と思う時もあり、大阪で留学できる事を幸いと思っています。もちろん、これからも大阪に誇りを持ってがんばって勉強していきたいと思います。

 

日本の国際化に期待 馬 妍(中国)マ ケン 優秀賞

私の母国中国は五千年の歴史を持ち、五十六の民族が一緒に暮らしている国です。母国の歴史、文化、民族それぞれに自慢できるものがあります。  母国以外の国、外部の世界はどのようなものでしょうか。ぜひ自分の目で見たい、そして先進国から何か学ぶことがないでしょうかという気持ちを持って私は日本へ留学することにしました。  

世界でも有数の経済大国である日本に着いた私はまず関西国際空港や新幹線や神戸の人工的に造ったポートアイランドなどたくさんの素晴らしい所を見学しました。そして日本は創造性に優れた国だとつくづく感じました。日本がこれほど豊かな国になったのは日本人が働き蜂のように勤勉な努力をしてきたからにちがいありません。  

私はときどき日本をアメリカと比べています。日本は島国で、国土面積はアメリカの二十五分の一、人口はアメリカの二分の一しかありませんが、国民総生産(GNP)はアメリカの1・3倍です。アメリカは世界一だと言われますが、私はアメリカではなく、日本がほんとの世界一だと思います。その一番大きな理由はアメリカはアメリカ人が造ったのではなく、全世界の人々が共同で造ったからです。自由に移住できるアメリカは世界中から優秀な留学生、優秀な科学者、技術者などを集めて、アメリカという国を建設しました。例えばアメリカのシリコンバレーのIT技術者の三分の一は中国人だそうです。日本はアメリカと違い、単一民族、移民のいない国です。日本は、全部日本人自身の手で造ったのです。この点から見ると私は実際に日本が世界一だと思います。  

しかし、これは日本の長所といえるけれど、短所とも言えないでしょうか。外国人が日本に定住することはなかなか難しいことです。また外国人は日本の政府機関で働くこともほとんどありません。  

経済の国際化、企業の国際化といういろいろの国際化の中で、人材の国際化が一番重要だと思います。IT技術者だけでなく、他の方面 の優秀な人材も日本で働けば、日本はどのようになるでしょうか。  

日本人自身だけで造った日本はそれだけでも世界一と言えるのだから、日本人と世界の優秀な人材とが共同で造っていけば日本は、さらに素晴らしい国になる可能性がないとは言えないでしょう。国際的な人材を集めれば本物の世界一になれるはずだと思います。  

各国からいろいろな人材を集めて、本物の国際化が実現することを私は日本に期待しています。中国ももっと国際化して世界一の国となってくれることを私も期待しております。世界の国際化、地球化がさらに進めば、そのとき、日本は世界一とか、中国は世界一とかアメリカは世界一とかではなく、みんなが一番になるのではないでしょうか。  

こういう考えは日本に留学したおかげでもてるようになったと思います。  

これからももっといろいろな経験をし見聞を広めていきたいと思っています。

 

私の国、タイ ガムポン タイチャーナ(タイ) 審査員特別賞

私の一番うれしい事はタイが好きな人がたくさん増えてきたことです。例えば交流センターのけいじばんにある紙にタイ語を勉強したいとか友達にタイ人がほしいとか書いてありました。それに私の先生もタイ語を勉強しています。私の友達の日本人もタイ語を勉強しています。私は彼に聞きました。「どうしてタイ語を勉強しましたか。理由を教えて下さい。」彼は「理由は別 にない。ただタイが好きなんだ。」と言いました。  

四月十五日は入学式でした。入学式の後で私はたくさん友達に会いました。中国人、朝鮮人、いろいろな国の人と友達になりました。ある日、私の友達はタイ語のおはようが知りたいと言ったので私は彼に教えました。「おはよう」をタイ語に訳すと「サワッディ」と教え、彼は私の言うとおりに発音しました。それをほかの人達はきいていました。私は聞かれました。「それはタイ語ですか?」「そうです」と私は言いました。彼らは外の言葉が知りたいというので私は教えました。例えば部屋はタイ語で「HONG」と言います。水はタイ語で「NAM」と言います。だから HONG+NAMはタイ語でトイレです。友達はおもしろがってタイ語を勉強したいと言いました。だから、時間があれば私は友達にタイ語を教えてあげたいし、タイの事も教えたいです。  

タイではお正月に皆が水をかけあいます。水はいろいろなところから引いてきます。例えば海や水道水などです。皆はきたない水で遊びたくないので、きたない水で遊びません。ほとんどはもっとおもしろくするために水の中にこおりを入れます。とてもつめたいけどおもしろいです。かけられる人はおこってはいけません。北から南までどこでも同じ遊びをします。知り合いでも知らない人でも皆いっしょに仲よく水遊びをします。高い服を着た人は忙しく、仕事があるけど逃げられません。仕事がある人にはあまり水をかけないようにします。前はタイのお正月に、民族衣装を着る習慣がありましたが、今はあんまり着なくなりました。  

タイはあつい国だからいろんな果物があります。例えばドリアンです。たくさんの人の話によるとまずいそうです。実はドリアンはちょっとかたい方がおいしいです。知らない人はやわらかいのを食べたがります。かたいのはあまり多くありません。ドリアンがとれるところから市場まで時間がかかります。時間がかかるからやわらかくなります。もし、ちょっとかたいのを食べたら、ドリアンのおいしさがわかると思います。  

多くの人はタイ料理は全部からいと思っています。実はからい物もあるし、からくない物もあります。タイの有名なタイ料理はトムヤムクンといってえびの入ったからいスープです。私は日本人にタイ料理は「からいほどおいしい」と聞いたことがあります。特にトムヤムクンです。私もそう思います。ある日、私は友達にタイのグリコキャラメルを持っていってあげました。それはちょっとからいです。友達は食べました。それはおいしくてからいので食べるのがやめられませんでした。短い時間で食べ終わりました。大変からいタイ料理を食べる時体があつくなりますし、あせをかきます。日本の冬にそれを食べたらいいかもしれません。寒くないと思います。  

タイはいろいろな面で不便な国です。今だんだん便利になってきました。いろいろな事はまだよくないです。時々悪い事をする人がいます。しかし、タイ人はだいたいやさしくて人を助けるのが好きです。それに皆笑顔をたやしません。私は理由の一つにタイを好きな人がたくさんいるからだと思います。それに私もタイが好きです。タイのいいところをもっとたくさんの日本人に知ってもらいたいと思います。

 

講 評

審査委員長 菊 井 康 夫  

大阪鶴見ロータリークラブは、従前より関西学友会日本語学校の協力を得て、留学生による日本語作文コンクールを実施してまいりましたが、今年で第8回を迎えます。  

回を重ねるごとに、年々応募の作品数が多くなり、今年は初級で56編、中級64編、上級58編と、昨年に比べ初級はほぼ同数であるものの中級が1.7倍、上級が約2倍と増加しております。関西学友会における当該コンクールの人気の現われでしょうが、「継続は力なり」という格言を思い起こさせます。  

作品の多さだけでなく、全般的に言って日本語の質の高さにも驚かされます。留学生の日本語修得に対する高い目標と情熱並びにたゆまない努力に加え、日本語学校での適切な指導の賜物であろうと敬服いたしました。

審査は、12名の審査員が3次にわたって慎重かつ厳正に行い、各級とも審査員の評価点を合計して上位 3名の高得点者を入賞者とするという方法で決めました。留学生の日本語作文の審査ですから、日本語が正しく使用されているか、誤字・脱字はないかという点を考慮したのはもちろんのことですが、初級から上級へと等級が上っていくにつれてそのような誤用が少なくなり、作文本来の内容の出来に審査の重点が移っていきました。こうなると、審査員の価値感や好みが大きく作用することとなり、評価点は一部の作品に集中するのではなく、予想以上に分散する傾向が見られました。したがって、入賞を逃したとは言え得点差が僅差で、「惜しかった」、「運がなかった」と申し上げるべき方々が非常に多かったことをお伝えしておきます。私個人の体験から言っても、力作ぞろいでなかなか優劣の区別 が付け難く、辛く困難な審査体験でした。  

なお、漢字に親しみのある中国・台湾・韓国出身の方々の作文は、やはり出来が良い傾向が見受けられました。そこで、非漢字圏出身者で入賞を逃した方々を対象に、各級とも審査員特別 賞を設けました。  

以上全般的な傾向を申し上げましたが、次に入賞作品と審査員特別賞について、私の極めて個人的な感想を申し上げて講評に代えさせていただきます。

〈初 級〉

徐林軍 「頑張ってねえ」  
日本の単なる挨拶を、意味合いが理解できた言いながら、やはり生真面目に考えている作者の誠実さに好感が持てます。

王 粛 「永遠のプレゼント」  
母と娘の愛情がよく伝わってきます。用法より内容に重点を置きたい一編です。

チャン ハン ファイ ボリス 「日本の生活と感想」  
ゴミの捨て場所に困る香港の人だからでしょうか、ゴミに関心を向けていますが、もう少しゴミに主題を絞ったたらもっと良くなったと思います。

リン トンウィン 「わたしのしょうらい」  
日本製自動車が好きなことから日本車の修理技術を学ぶために日本に来て勉強している作者の意欲が良く伝わってきます。

〈中 級〉  

孫ロロ「中国の食卓と日本の食卓」  
両国の食事作法を比較して日本人の性格までも読み取ろうとしており、興味深い。中級の中で群をぬ いて高得点でした。  

劉トウトウ 「私の留学の旅」  
作者の勉学意欲が十分に伝わってきます。しっかりした文章で、半年前の来日というのが驚きです。  

宋ショウレン「日記をつけますか」  
日記をつける効用について的確に指摘した秀作です。

プリーシャー サロン 「言葉との出会い」  
職場の標語から「自分が変わらなければ何もかわらない」という真理を見つける話ですが、作者の心の中での無意識の高まりがこの言葉を呼び込んだことが読み取れ、好感が持てます。

〈上 級〉

崔益華 「優しい国と私の変化」  
日本に来て障害者に対する思いやりに目覚めていく作者の本来持っていた心の優しさが伝わってきます。中国よりはちょっと進んだ障害者への配慮を「優しい国」と言っていただくのは面 映ゆい気がしますが。

王一惠 「大阪、好きやねん」  
大阪の長所と短所を分析して、結局大阪を「好きやねん」と言ってくれるところが浪速衆の心をくすぐります。でも大阪人に特にチャレンジ精神があるとも思えませんが。

馬 妍 「日本の国際化に期待」  
日本を的確に分析し、日本人だけで造りあげたという長所が、反面人材の国際化の遅れとなっていることを指摘し、説得力があります。

ガムポン タイチャーナ 「私の国、タイ」  
自国タイへの愛情とタイを理解して欲しいと願う心がよく表現されており、さわやかな心持になれます。