1999年度入賞作品

初級

「もどってきた財布」 林 明奎(韓国)

 日本に来てまもないある金曜日の午後でした。学校から帰ってからまた出かけようとしたら上着のポッケトにあった財布がないのです。へやにおちていると思って本やふとんなどをこまかく探してみましたが、財布はありませんでした。 今までこのようなことはなっかたのでめまいがする思いでした。ポッケトには地下鉄の定期券とコインがあったのでそのまま家を出ました。そして家にもどってまたへやのなかを探しました。しかし財布はありませんでした。自然に「ああ、どうしょう」と言葉が口からでました。

 まず何ができるのかを考えました。財布が見つかるように神様に祈りました。しかし色色な心配もするようになりました。現金はなくしてもいいと思いましたが、キャシュカードやクレジットカードはほかの人が使うとこまるのです。韓国だったらどうすればいいのかわかっていましたが、異国の地、日本ではどうすればいいのかわかりませんでした。

 すでに銀行の営業時間がすぎていたのでどのようにしらせたらいいのかわかりませんでした。しらせるにしても月曜日の朝まではお金がないので何も買えない状態でした。クレジットカードの紛失届け韓国に国際電話をしなけらばいけなかったので頭が痛くなりました。

 その時もしかして学校の教室にわすれてきたのではないかと思いました。確信はなっかたのですが行き先は学校にかわりました。学校に向かう地下鉄の自分がみじめに感じました。日本に来て1ケ月にもなってない私はこのでき事がたいへん重く感じたのです。

 学校につきました。かたことの日本語で管理人のおじさんに事情を説明し教室に入って財布を探してみたいと言いました。するとおじさんは私を教室ではなく事務所の方に案内したのです。そこには見なれた私の財布がありました。名前も知らない学生が財布をひろってあずけていたのです。その時の喜びと安堵感は経験していない人にはわからない大きな物でした。

 新たに、日本と日本人そして学校の学生たちにたいする感謝の心が生まれました。だれが財布をあずけたのかわかったら感謝の気持ちをつたえたかったどですが、今でもだれなのかはわかりません。

 それから日本は長い友だちのような国だと思うようになりました。今日もその感謝の気持ちを心におさめて、まわりの人々につたえるように生活しています。

 

「 私が好きなところ」  王 星釣(中国)

 私が一番すきなところは海です。海がみえるところはとても気持ちが良いです。

 朝の海はとてもいたずらで、波が岩に砕けます。遠くの海を見ると、その深い青色が海の万年も変わらず神秘な歴史を述べているような気がします。それから海は私を歓迎しているみたいに銀色の波で微笑みを浮かべます。

 海辺で海を眺めると海の向こうにきっと私の故郷があると思います。故郷が私を育てました。私が志を遂げるのを望んでいます。海は広くて、その広さが父親の胸もとみたいで、ずっと私を抱きしめているような気分でした。 その時々激しくなる波の音も父親の教訓みたいで「前を向いて自信を持って、頑張り続けたら、成功できます。」と何回も述べました。

 夕方の海もとてもきれいだと思います。太陽が西側に沈んでいき、海面にオレンジ色が染み込んできます。天と海が分からなくなりました。海面が風に波打って、波が静かに静かに寄せては返します。この時の海は母親のように私にささやき、その白い波も母親の白い髪みたいに殘陽の下で光っています。困った時は母親が私の心の支えになってくれました。いつも優しくて慈愛に満ちた顔が永遠に忘れられません。

 海を見るといろんなことを思い出せます。海の何千何万年も変わらない神秘の力に私はおどろきます。海を見るとやる気が出て自信が満々になってきます。 海を見ると自分が帰郷している感じがします。海を見ると父親と母親と一家だんらんしている気がします。だから私は海が一番すきです。

 

「私の母」   呂 ○(中国)

 異国の日本に来て、一か月間が経った。先進国で勉強できた喜びがまだまだ新鮮だがホームシックが段々襲ってきた。目の前に良く浮かんできたのがミシンの前に腰掛けて、子供の服を作っているやさしい母の姿である。母親のもとを離れてはじめて、私は母の言葉の真意がわかり、母親の愛情を一層強く感じるようになってきた。

 母は高校の物理学教師で、父は化学教師である。父は学校の仕事に熱心で、重職につくたびに忙しくなり、家事と子供の教育を全般的に母に任せた状態であった。母は学問だけでなく、私の人格形成上にも大きな影響を与えてくれた。 

 母は勤勉で、知性があふれて、やさしい女性である。 そして、言うこととやることは絶対に矛盾がなく、頼りになる人間である。

 小さいころの中国は、まだ物資が乏しく、生活が不便であった。暖房とガスがないため毎朝、母は四時半ぐらいにに起きて、石炭を運んで。ストーブをつけ、家族の朝食とお弁当を作った。夜学校の仕事を終え、家で家事をやりながら、妹と私の勉強を見てくれた。勉強といっても、受験勉強ではなく、日常尾生活の中で物理、化学変化などを遊びながら教えてくれた。母の教育方針は正しかった思う。 

 私がうそをつくと母の顔がますます真剣になった。そして「うそついたらだめよ」と言った。私に実直な生活を教えてくれた。

 そう言う母親は学生たちにも愛され、お正月になると、いつも両親の学生で家はにぎわっていた。母が教えてくれた勤勉さ、誠実さ、周りの人をやさしくおもいやることを覚えて、日本で元気に勉強できているのは両親のおかげである。本当に感謝している。

  母親が喜ぶように、これからも、私は勉強と国際交流に一生懸命励みたいと思う。 それが私が母から注がれた愛情を他の人にも伝えることになると思うからだ。

 

中級

「信長と安土城」  呉 膺豊(台湾)

 歴史は私の趣味で、国にいた時は歴史の本や小説などを読んでいました。 特に「三国演義」が気に入っているのです。日本に来て戦国時代の歴史を知りました。それで、すぐ熱中してしまったのです。今は戦国時代に関する漫画や本を購入し、読みながら学んでいます。

 戦国時代の一番有名な大名といえばやはり織田信長でしょう。外にも武田信玄とか上杉謙信とか戦争上手と認められた大名がいましたが、回りの大名を破って天下統一の道を歩んだ大名はただ信長一人です。 

 今でも米沢や長浜などのお祭りで鉄砲を撃つことをしますが、戦国時代にだれよりも鉄砲を活用した大名はなんといっても信長です。最も有名な戦いは天正三年の長篠の戦いで、信長は三千挺の鉄砲を使って当時最強と言われた武田騎馬軍団をつぎつぎに撃ちやぶりました。

 この戦いで、信長は三人一組の連続射撃の新たな戦法を思いつきました。信長の独創力の発揮はこれだけではなく、毛利水軍をやぶるために、外国宣教師も驚いた巨大な鉄甲軍船を建造したこともあります。 信長の独創力や今川家を奇襲した決断力などは今でも大勢の人達に「すごい」tと言われています。これも私が信長を気に入ってるところです。

 現代社会でも企業間のきびしい生存競争にも実用されているのです。一生懸命やるのも一つの勝つ方法ですが、新たな商品や製造方法を創造すれば、成功の可能性は高くなります。アメリカ、日本、ドイツなどのように、化学や技術の創造力が高ければ国の経済も発展していくはずだと思います。

 そんなわけで、私は興味を持って、琵琶湖の近くにある彦根城や長浜城ではなく安土城跡へ行きました。安土城は長篠の戦いの後、信長が天下に号令するため、安土山に築いた城です。 登山の道が三つありますが、一番広いのは大手道という道で、八人一列で通ることができます。もしかすると四百年前中国地方を攻めた軍隊はこの道を通って出発したかもしれません。道は広いけれど、険しく登りにくいです。やっと頂上に着くと琵琶湖や近江の田園景色が見えて、すごくいいながめです。しかし、戦いがあったので本丸もないし、立派な天守閣のありません。信長が天下に号令した場所や安土・桃山文化を表現する建物が見られなくて、私はがっかりしました。残念だと思いながら近くにある安土町城郭資料館で安土城についていろいろ調べました。

 そんなに重要な歴史の遺跡あるのに安土はあまりにぎやかな都市ではなく、 JRの普通電車しか止まらない小さな町です。信長に関係のある「名古屋、岐阜、安土」の中でなんといっても名古屋が一番にぎやかですが。それと比べたら、安土は本当に農村のようなものです。どうしてでしょう。

 「信長が殺された原因は何でしょうか」「運が悪かったのですか。」または「彼の個性のせいですか。」いろんな質問がでて来ました。実は日本語を勉強してから、まだ九ヶ月ばかりなので、ふりがなのついた本しか読めません。それに本の中に分からない言葉がたくさんあるため、辞書を引きながら少しずつ読んでいるのです。早く日本語が上手くなり、もっと詳しく研究できるように頑張りたいと思います。それぞれの疑問もその時解けると期待しています。

 

「大切にしたい緑の森」   黄 勤 (中国)

 現在、世界において環境問題すなわち自然破壊が深刻な問題になってきた。 人間社会が進歩するにつれて、新たな土地と資源確保のために、森林の伐採が進んできた。ある時期は社会の進歩に伴い、そのような開発はある程度許されてきた。しかし、その乱伐で人類社会にさまざまな悪影響を及ぼすようになってくると、人類はそれを黙殺することはできなくなった。また、森林の伐採は地球温暖化の原因の一つでもある。人間は酸素を吸って生きている。美しい森は酸素を作って人間に大きな恵みを与えている。

 例えば、南米のブラジルのアマゾン川の上流の原生林は、何年間もの乱開発により、原生林に生存していた動植物の生態系が変わり、自然のバランスも崩れてしまった。特に、森が雨水を吸収し、川の流水を調整してきた。つまり自然の営みが乱伐で崩れて、下流において洪水が多発するようになった。

 そのほか、日本の沖縄では雨水が汚水となり海に入り、美しいさんごを殺してしまった。私の国中国でも昨年、山林の乱伐と三峡ダム工事の影響により一ヶ月の集中豪雨が重なり、長江上流では川の水量がいまだかってなく増水し、下流において堤防が決壊してしまった。大洪水で数えきれないほどの都市の建物や道路や田舎の田に、多大な被害がもたらされた。

 要するに、森は私達にとってかけがえのないものだから、緑の森を大切にしなけらばならない。そのために、私達は何をすべきだろうか。

 一つめはまず、都市計画である。土地の有効利用、つまり建物を高層化し、それによって生じる空地に大いに植樹する。人工的に都市に緑を増やすのである。 二つめは、リサイクルの徹底的実施である。最新の科学技術を利用して、リサイクルを拡大し、森の伐採を最小限に抑えることである。三つめは神の不要な社会を築くのである。例えば、手紙の代わりにEメイル、紙幣の代わりにクレジットカード、雑誌の代わりにテープ、新聞の代わりにパソコンを大いに利用すればよい。

 このように努力することにより、私達は自然と高いレベルの文化を共存させることができる。緑の森を守り、育て、同時に貴重な動植物を守って平和で豊かな社会を作りたいと思う。

 

「生活は自分自信のためです」   高 原(中国)

 最近、わたしはざっしを読みました。このざっしの中にあった一遍「自分で建てた家」という物語はわたしにいろいろの感想を与えました。

  物語はこうです。ある大工はもう年寄りなので、退職したいと思いました。 しかし、彼はすぐれた工員なので、この大工のボスは彼を惜しみました。 それからボスは彼にもうひとつの家を建てることを頼みました。しかたがないので、この大工はこの仕事を引き受けたけれども、彼はあまりていねいに仕事をしませんでした。建てた家は丈夫ではありません。仕事が終わった時、ボスはこの家のキーを大工にわたしながら「これはわたしからあなたへのプレゼンとです。今から、これはあなたの家です。」と言いました。その時、大工はびっくりして、恥ずかしくて穴があったら入りたいほどでした。もし彼は自分の家を建てているのを知っていれば、たいへん気を使ったはずです。今、自分で建てた、悪い家にすまなければなりません。

 この物語を読んで、学生時代のことを思い出しました。その時わたしはこの大工のようでした。いつも将来のいい生活にあこがれました。しかし、目先の生活を大切にしませんでした。「将来の生活は今の生活に関係がない。」と思いました。ですから、わたしは努力しませんでした。いつも「成績がわるくてもいい。」と思いました。だから、自分の理想の大学に入ることができませんでした。それに自分の好きな職業にも就けませんでした。

 いろいろのことを経験したあとで、やっと生活は自分自身のものだとわかりました。 今の生活は将来の生活に直接の影響を与えます。ですから、今、自分の生活の中のどんなことでもやりとげなくては、将来のすばらしい生活は永遠に得られません。わたしは過去のあやまちに後悔を深く感じました。

 今回の日本留学はわたしにいい機会を与えました。わたしはあたらしい出発に向けて、時々自分に「一生懸命に勉強します。」と言います。過去の失った時間を補うことができたらいいと思います。

 生活は自分自身のためですから、がんばります。

 

上級

教育の自殺行為  楊 ○○(中国)

 教育の自殺行為というのは教育の仕方により逆に人間としての豊かさが貧しくなっていくことだと思います。

 教育のもとは「教え、習得させ、知識を与えて、個人の能力を伸ばす」ということです。人々は教育を受けて、より強い能力を身に付けて、社会にとって発展の原動力となってきます。それが教育の役割でしょう。 

 でも、今の教育は逆の方向になってきました。受験のための暗記中心の詰め込み教育の下で、学生は自分で物事を考えない様になります。そのまま社会にでて、自分自身で考えることも社会的な貢献もできません。そんな人間で社会があふれたら、社会自体の崩壊は予想できるでしょう。それは教育の自殺行為ではないでしょうか。

 日本では、小学校から塾へゆく子供が多いです。進学試験のため、学生達はいろいろな受験訓練を受けます。それに、授業の内容も試験の範囲によってきめられます。点数が高い学生は優等生で、進学率の高い学校はいい学校あと言われて、試験は学生にとっても学校にとっても一番大切なことになり、いつの間にか試験は教育の手段から教育の目的になりました。 

 受験中心の教育制度は日本だけではなく中国もそうです。

  子供達は小学校に入った日から終点のない受験マラソンが始まります。いまの中国では一人っ子が多くて、一人っ子は「小皇帝」ともよばれています。「小皇帝」は小さな皇帝の意味です。家族の「皇帝」が受験するとなれば、ほかの家族が協力したり、応援したりするのはもちろんのことでしょう。子供のために小学校の教科書を勉強して、いい家庭教師ななれるように頑張っている父母が多いのです。 

 その問題に対して中国教育委員会はいろいろな教育改革をしています。中国では「九年義務教育制度」が行われています。 それによって、子供達は九年の教育を受ける権利があります。一九九五年、その制度を推進して、小学生の受験による圧力を軽くするために、中学校への進学試験は廃止されました。小学校六年間の毎回の試験成績と担任の先生の意見を考え合わせて、 中学校へ推薦するという「推薦入学制度」になりました。

 そうなっても、受験中心教育の現状は余り変わりません。中国で小学生と中学生向けの塾が急増しているそうです。一部の教育専門家は「勉強ばかりでは子供らしさが損なわれる」と批判していますが、我が子を思う親の熱意を反映して、塾はまだまだ増えそうです。将来の学生達は今よりもっと苦しいでしょう。

 「あなたの明るい未来のために頑張ってね」とはげまされた子供達はそのようなはっきり見えない目標のため、いたずらに勉強します。でも、大学を卒業しても出世できる確約はないでしょう。教育を受ける意義はいったいなんでしょうか?  

 学校教育は社会の進歩のp出発点でしょう。「高水準の教育は新しい技術のもと」とも言えます。戦後の日本は短い時間で経済を回復して、世界の中でも経済大国と呼ばれて、強大な経済実力を持つようになりました。その原因の一つは高水準の教育だそうです。その点から見ると、教育は社会の進歩に何という重要な役割を与えることでしょう。

 人材は社会的な富です。今の社会は市場競争から人材競争に転化しています。でも、どんな子供に対しても同じ内容を同じ方法で教える今の教育で人材を育てることができますか? 

 教育のもともとの目的から考えなおした方がいいのではないでしょうか。私達の明るい未来の為に。

 

「心にはかせるくつ下」   金 眞希(韓国)

  私はおばあちゃん子だ。 

 仕事で忙しかった両親の代わりに私をここまで育ててくらたのはわたしの大好きなおばあちゃんなのだ。 どれぐらいおばあちゃんが好きだったかというと、子供の頃泣くとき「ママー」じゃなく「おばあちゃんー」と泣くぐらいだった。 そんなおばあちゃんと離れたのは2泊3日の修学旅行くらいしかなかった私が日本留学を決めたのは1年半ぐらい前のことだった。おばあちゃんは以外と涼しい顔で私を日本へ行かせた。

 「お前が生まれた時の私の夢はお前が小学校に入学する姿を見ることだったんだよ。なのに高校卒業まで見れたんだから、これ以上は欲張れないよ。」

 その時83歳になったおばあちゃんの言葉だった。 

 日本に来た当時は毎日のようにおばあちゃんに電話をかけた。 

 「こら、こら。毎日電話するんじゃない。国際電話はとても高いんだから。ほら、切るよ。」 

 冬休みに、おばあちゃんが日本へ私を訪ねて来た。もううまく歩けなくなって、車椅子に乗って。

 「ここ冷えるね...。こんな寒いところに住んでいると、足が冷え切っちゃうじゃないの...女の子は足を暖かくしないと病気になるのに....」 

 いくら暖房を利かせても冷え切っている私の部屋。おばあちゃんが心配そうに呟く。

 「子供の頃から言ってるじゃない!!女の子は足下を暖かくしないといけないって。くつ下、2枚はきなさい。」 

 ああ、また始まった、うっとしいおばあちゃんの小言。 

 「ああ、わかった、わかった。」 

 おばあちゃんがいくら言っても、私は上の空。おばあちゃんはそんな私を見て舌を打つ。

 「全く...言うことを聞かないんだから。」 

 おばあちゃんが韓国へ帰ってからしばらくして母から電話が入った。 

 「全く....何考えてるんだろう。おばあちゃんね、目もみえないくせに編み物なんかはじめたんだよ。」 

 そう言えばおばあちゃんは若い頃は編み物が得意だったといつも自慢げに話していた。毛糸さえあれば、何でも作れると。 

 「くつ下2枚はけと言ってもあなたが聞かないから暖かい毛糸でくつ下編んで送るんですって。」 

  84歳になって時々人の顔も間違えるくらい目が悪くなったおばあちゃん。いくら得意だったとしてもそんな簡単にくつ下は編めない。何回も失敗してハラ立たしくて放り出したという。でもまたぶつぶつ言いながら眉間にしわ寄せて一生懸命編み始める。

 5月になった。おばあちゃんのくつ下はまだ届かない。外に出ると、汗がでるくらい暑くなった。家の中でも、はだしですたすた歩くことが多くなった。

 白内障。おばあちゃんの病気の名前だ。6月には入院して、手術しないといけないんだってさ。 

 「全く... 私が編み物上手か見せてあげようと思ったのに。」

 おばあちゃんは笑う。くつ下ダメになった。ごめんねと言わんばかりに。

 「何、編んだところでへたくそに決まってんじゃん。目も見えないくせによ。」 私も笑う。実はおばあちゃんは本当に編み物上手だった。くつ下が届かない? そんなことはなかった。ちゃんと届いたのだ。私はその暖かいくつ下を辛い留学生活で凍り始めている私の心にはかせた。とても暖かくてはき心地のいいそのくつ下を。   

 私はおばあちゃん子だ。うちのおばあちゃんは小言と編み物が得意だ。

 

営業時間午後3時〜朝2時   李 享振(韓国)

 二年前の夏のことだ。当時十日間の日程で日本に旅行に来た。単なる観光目的だったので、一般的に韓国人が持っている日本に対するイメージというものを私も持っていた。だから初めに空港に到着して、電車に乗って都心に入って来た時も韓国とあまり変わらないと思っていた。しかし十日間の時間がすぎて韓国に戻った時、自分の中で何か引っ掛かっていた。その後、日本についての授業で、自分なりに勉強してきたが頭の中に残っているその「何か」をまだ探しきれないまま時間は流れた。そして直接本当に日本に触れるチャンスがやって来た。日本への留学だ。  

 一般的に「日本と韓国は近くて遠い関係」と言われている。これは地理的には近いが、両国の歴史的関係から感情面での隔たりは大きいと言うことだ。しかし当時の私はその「遠い」という言葉に何か否定的イメージは持っていなかった。単に日本を韓国と全く違う文化と環境、社会を持っている外国としての差異について言われるのだと思っていた。

 「遠い」の概念を把握せず日本に来た私の心を前回感じた「何か」がまた襲った。と同時にやはり日本と感情面において大きな距離があると思うようになった。  

 とある日、友達と一緒に家からあまえり遠くない風呂に行った。もちろん以前にも行ったことがあるので、特に違和感はなかったし、ささいな部分に対してはあまり注意を払っていなかった。しかしその時、風呂の営業時間が書かれた紙が私の目に入った。「営業時間午後三時〜朝二時」。韓国の場合は朝五時から夜八時までが一般的なので、全く逆だった。それで風呂の主人と営業時間について話したら、その主人は「日本の風呂屋が遅くまで営業するのは風呂で疲れをとって一日を締めくくるものだから」という話をしてくれた。 そのは話が今まで私が探していた「何か」、つまり日本と韓国の「遠い」という概念の本当の意味を知る一歩になった。  

 韓国は風呂を一日の始まりと思う傾向があるからそんな生活様式に合わせて早めに営業を開始し、早めに終わる一方、日本は全く逆だ。これは単なる習慣の違いというだけでなく、私達の意識の根底にあるものが全く違っているということを意味するのではないだろうか。  

 この間、日韓両国のことわざの違いについて勉強した。その時の日本のことわざの中で「終わり良ければ全て良し」というのが今でも私の記憶に強く残っている。なぜかと言うと、韓国にはそんなことわざがないだけでなく、むしろ反対の意味を持っている「始まりが半分」ということわざがあるからだ。 これは始まってみれば半分終わったも同様であるという意味だ。韓国では物事の始めに重点を置き、始めがよければその後は自然に良い方向に向かうと思う一方、日本では終わりに重点を置き、最後が良ければそれまでの過程は別に気にしない。その時はその二つのことわざの差に単純な興味を覚えただけだったが、風呂の文化と照らし合わせて考えて見ると、ここにも両国間の意識が根本的に違っているように感じられる。このような考え方が文化、生活とつながって、やがてその国の特徴になってくるのではないかと思う。だから、風呂の文化一つにしてもささいなことだと無視することはできない。そこにも日韓の考え方、つまり「遠い」の意味がはっきり提示されているのだ。もちろん各国に伝わってきた伝統なので、他の世界から見ればおかしいと思うこともあるかも知れないがそれが他の文化を学ぶということであり、その違いを知ることが相手を理解するのに大いに役立つのではないだろうか。

 21世紀を目の前にした今、日韓両国はいいパートナーであり、同時にいいライバルであると思う。両国がこれからもっと「近い」関係で発展するためには、両国の文化、生活、考え方を認識することだけでなく、それらを肯定的に受け入れようとする心掛けが必要だ。相手の文化を認めるということは自分達の文化を見つめ直すということであり、それが自分の国を愛することにつながるのではないだろう。これこそが、共に21世紀を迎える私達の世界の一員として歩むべき道だろう。

 

審査委員長特別賞(中級)

「日本での私の経験」  モハメッド・ジャシム・ウディン(バングラデシュ)

 私はバングラデシュからまいりました。ジャシムと申します。バングラディシュをごぞんじですか。世界地図の中の南アジアの小さい国です。いろいろなもんだいがあっても生活のために毎日奮闘しなければならない人が多いです。彼等は貧苦と戦っています。でももんだいだけでなく楽しいこともあります。一度私の国バングラディシュへいらっしやいませんか。私は日本へ来てもう六か月になりました。まだ日本に少ししか住んでいないのでいろいろ見たこと、聞いたこと、日本の文化伝説、日本人の考え方を書くのはむずかしいです。  

 日本へ来て私はほんとうにおどろきました。何でも制度がとてもいいです。日本の国のせいふや法律などはかんぺきに作られています。私は国でいろいろセミナールへ行ってせんしんこく日本のことを聞きました。でも日本は私が思ったよりいいせいふの国です。  

 日本の文化、伝統には日本人の考え方の独創力があります。でもげんざいとか新しい日本の文化、芸術がミックス文化になってきました。日本人はさまざまな国の文化、芸術が知りたいです。けれどもあるわかい日本人はこのごろアメリカとヨーロッパの文化、芸術が何でも大好きです。自分の独創力を忘れてしまいました。でも年上の人やわかい人の中にはなんといっても自分の文化が一番大切で、自分達のれきしを忘れずに他の国のことを受け入れた方がいいと思っている人々もいます。私も同じことを思っています。  

 日本の行事というのは正月、子供の日、母の日、七夕などがあります。その時みんなで楽しみながらいろいろなことをします。ある人はお寺に行っておいのりをします。みんな町のいろいろなところへ行って遊びます。私もある年のくれ保証人のお母さんといっしょにちかくのお寺に行きました。たくさんの人々が集まりました。  

 私は日本人は世界で一番温和な、親切な人々と思います。あんまりほかのいい国に行ったことがありませんけれども新聞とかテレビのニュースでいろいろなことを聞いて、見てくらべてこのことを思っています。みんなでいい生活のために大変なことがあってもいっしょうけんめいがんばっています。ですから今の日本を作ることができました。日本人ならなんと言ってもせいしんがあります。日本へ来たら私は日本人話す時いつも聞きました「がんばってください。」この言葉が日本人大好きです。何がもんだいがある時、さようならの時この言葉をみんなで使います。私はこの言葉は何でもチャレンジをしましょうといういみだと思います。もう一つは日本人のあいさつのかたちが私は大好きです。いつも頭を下げてとてもていねいな形であいさつをします。日本人はとても平和です。せんそうがきらいです。日本は世界のさまざまな国のせんそうとかいろいろなもんだいがある時、そのもんだいをかいけつするためにいろいろサポートしています。  

 日本のきょういくせいどもとてもいいです。学生達は子供のころから本だけてなく社会のいろいろな大切なこと、生活のこと、将来のことも教えてもらいます。私の国ではたくさんの子供達が勉強するために学校へは行けません。社会のさまざまなもんだいもあるし、ある親が勉強より仕事をさせる方が好きです。その人達の考え方は『勉強してどうします。いい仕事はふみらえます。あっても会社に入るのはむずかしいです。それで生活のサポートするために仕事をしてお金をもらえば、そのお金で生活もっと便利になります。』というものです。日本の子供達はいろいろな洋服をきて学校に行っていい人になるために、国のためにいいことを教えてもらいます。いつバングラディシュの子供達も学校へ行って勉強することができるか私は待っています。  

 日本のせいじ、けいざいはよくなってきました。今の日本はテクノロジーが進歩しました。日本の交通システムがとても便利です。日本のしんかんせん、地下鉄、モノレール、電車などがすばらしいです。このすばらしい交通システムで日本人は遠いところから学校とか仕事に元気よく行ってうちへ帰ります。  

 日本の法律はとてもきびしいです。たからみんなできそくを守っています。  日本で何でもねだんがとても高いです。生活ひたぶん世界で一番高いです。もしかすると日本人ならだいじょうぶです。けれども外国人ならほんとうにびっくりするでしょう。  

 日本人は旅行が大好きです。休みの時たくさん日本人が日本の中、また世界のさまざま国へ旅行をします。私もこの前の春休みの時ほっかいどうへ行ってきました。  

 私は日本へ来てからいろいろなことを教えていただきました。国へ帰ってこちらで習ったことをやくだてたいです。